ももちゃんの一分間説教




今週の一句
老人施設 丘に広がる コスモス群

―もとゐ―


 2006年11月5日(日)
 年間第31主日

 マルコによる福音書12章28節b-34節

12,28 〔そのとき、〕一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12,29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12,30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12,31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12,32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12,33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12,34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 イエスは舟。

 イエスはいつも私たちの目を、内から外へと向けさせる。

 子どもや女性、目の見えない物乞いのバルティマイへと。自分の命、自分の救い、自分の永遠の命、自分の神の国を心配していると、弱い立場の人のことを思えとイエスは導く。

 なぜなら、イエスは心底、神を信じ切っている、つまり、神のうちに生きている、だから、私たちに呼びかける、神は私たちをまず愛してくださるから、何も心配することはないよ、安心して隣人への奉仕をしようじゃないか、と。

 神への愛とは、イエスのように全て委ねること。「心を尽くして」とは「心のすべてから」信頼すること、神が既に愛していてくれるのだから。
今週の一句
鍋蓋を 木枯らし一番 飛ばしけれ

―もとゐ―


 2006年11月12日(日)
 年間第32主日

 マルコによる福音書12章38節-44節

12,38 〔そのとき、〕イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12,39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12,40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12,41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12,42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12,43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12,44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 イエスは舟。

 イエスは私たちを「神への愛と隣人への愛」に招かれる。

 「神への愛」は二通りあった。一方は、神の掟を一生懸命行うことであった。しかし、それによって、神と人の前で自己を誇るようになってしまった。そして、寡婦のような小さい立場の人を顧みず、むしろ、苦しめていた。「神への愛」は自分を自惚れる、自己愛へと変ってしまった。また、金持ちは金に頼り続けた。ここでも、金が自分を支えるものであったから。

 他方、無力な人は出来ることを精一杯やった。持っている物をすべて、全部を献げた。持ち物ではなく神が支えてくださるから。イエスは命を献げた。

 寡婦のようにわたしたちにも出来ることは一つある。精一杯献げよう。
今週の一句
特老を 見舞いて出れば ピラカンサ

―もとゐ―


 2006年11月19日(日)
 年間第33主日

 マルコによる福音書13章24節-32節

13,24 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13,25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13,26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13,27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
13,28 いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13,29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13,30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13,31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
13,32 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

 イエスは舟。

 航海は続く。しかし、環境汚染はますます進み、核戦争の脅威も増している中で、舟の行方はどうなるのだろうか。イエスは警告する。破滅に手を拱いて待っていてはいけないと。なぜなら、総決算のとき、後悔するだろうから。

 生命を大事にしたい、守りたい、特に、未来の子どもたちの。そのためには、核爆弾をなくし、環境を取り戻したい。寡婦のように神において出来る限りのことをする。それが、終末を前に生きる者の姿ではないか。

 舟は他の人々を巻き込んで、生命を救う航海を続けるのだ。
今週の一句
フロントの 窓に落葉の 錦織り

―もとゐ―


 2006年11月26日(日)
 王であるキリスト

 ヨハネによる福音書18章33節b-37節

18,33 〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 イエスは舟。

 生命を大切にすることを第一とする、イエスの航海は続く。しかし、生命より、力、富、快楽を第一にする者たちからはその航海が邪魔される。なぜなら、後者は他者の生命は自分に利益をもたらす限り価値があるとしているからだ。真理は偽り者にとって許し難い。偽りを露わにされるからだ。

 真理を知る者は自由になる。隠す必要がないからだ。ありのままで生きられるのだ。

 イエスは命をもって私たちの偽りの縄目を解いてくれた。真理に生きよう、生命を守ろう。 


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