|
2006年10月1日(日) 年間第26主日 マルコによる福音書9章38節-43節、45節、47節-48節
イエスは舟。 前回、イエスは早くから乗船している人々に「子どもを受けいれ、仕える人」になれと呼びかけている。 今回、イエスは「小さい者」をつまずかせないようにと呼びかけている。 乗客の先輩たちが威張って、後から来た乗客たちを指図したりして誤った夢、希望を持たせないようにとの忠告である。順位争いをしたり、十字架の道を拒否したりする先輩たちにイエスは注意している。後輩の乗客が同じ過ちをしないように。 むしろ、イエスは仕え、子どもを受けいれる道の困難さを教え、だからこそ上下関係ではなく一緒に歩むことを願っている。イエスの与える幸いは目的地にあるのではなく、道程にある、即ち、小さき者同士が困難な道を共に歩む過程に。 |
2006年10月8日(日) 年間第27主日 マルコによる福音書10章2節-16節
イエスは小さき者と歩む舟。 イエスの言動を気に入らない先輩の乗客たちは、何とかしてイエスを屈服させようと攻撃する。離婚問題についてイエスの言葉尻を捕らえようとする。 イエス時代と今日の離婚問題を同列には論じられないが、立場の弱い女性の権利を如何に守るかが問われていると思う。「子どもを受けいれ、仕える」ことは女性を尊重し、守ることにも通じる。 イエス時代にあって女性は人ではなかった。男性の下位にあった。イエスの視点は神である。人のご都合主義にはない。神の視点は「命」である。命が失われるのではなく豊になることが人に求められている。 イエスの舟。ここでは、子どもや女性が大事にされる。 |
2006年10月15日(日) 年間第28主日 マルコによる福音書10章17節-30節
イエスは舟。 人は誰しも幸せになりたいと思う。ある人は富を手に入れ、社会的宗教的にも立派な生活をしていた。言わば、人が羨むこの世の成功者になった。けれど彼には欲しいものがあと一つあった、来世の幸福である。しかも、当然、得られると思っていた。彼は、イエスに尋ねた。あなたの言う「永遠の命」を私は貰えるかと。 イエスは優しく彼を見つめて言った。私の言う、永遠の命とは手に入れるものではないのだよ。創りだすものなのだよ。人との関わりの中で、特に弱い立場の子ども、女性、貧しい人との関わりの中にあるものなんだ。あなたは飢えた人と出会ったとき、何が出来ますか。富や名声が邪魔になりませんか。 イエスの舟は幸せを創り出す時。乗り続ける私たちは、身を軽くしましょう。 |
2006年10月22日(日) 年間第29主日 マルコによる福音書10章35節-45節
イエスは舟。 イエスを信じて従う道は遥か遠い。イエスを信じる者の動機は種々あるだろう、前回のように来世の幸福を、また、今回のように栄耀栄華を、あるいは安心立命を、いづれも、現世利益と言うものだ。 しかしと、イエスは言う、現世利益はいくら求めても満足しない、そうではなく、神の幸いに生きよ、と。即ち、神の国では争いや妬みはない、なぜなら、皆を神が奴隷のように仕える、平等に愛し、受けいれてくださるから、既に、幸いを与えられているのだ。幸いは求めるのではなく、心を開き生きることだ。 イエスの舟に乗った私たちは既に幸いにある、この喜びを感謝し、他の人に仕えよう。 |
2006年10月29日(日) 年間第30主日 マルコによる福音書10章46節-52節
イエスは舟。 自分中心ではなく、他者への関心、即ち、貧しい人への施し、仕える者になるようイエスは、舟の乗客に呼びかけられた。 しかしながら、彼らの目はまだ開かれていなかった。いまだ、舟に乗れず、荒海に漂っている人々は数知れずいる。中には、二重三重の苦しみを負わされている人もいる。イエスの舟の乗客たちに必死に合図をおくっている人もいる。けれども、その乗客たちは無視している、ひどいことには、視界にはいらないように舟を遠ざける人もいる。 イエスは乗客たちに言った、「呼びに行け」と。乗客たちは赤面しただろう。そして、目が開かれた。 私たちの祈り、行いに弱い立場の人がいますように。 |
|