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2006年9月3日(日) 年間第22主日 マルコによる福音書7章1節-8節、14節-15節、21節-23節
イエスは舟。 イエスこそ豊かな人生に導いてくださる方と信じて、乗船しました。 乗船した人々は多種多様でした。なかには、自分たちは乗船するには最もふさわしいのだ、その資格があると主張して、他の乗客に自分らの行動を見習えと強要する者たちが出て来ました。 イエスは悲しくなりました。この舟は共生の舟だ、にもかかわらず、どうして、人は裁き合い、人の上に立ちたがるのだろう、と嘆きました。 イエスは彼らに語りかけました。舟に引き上げたのは私じゃないか、この舟では悪意で人を見るのではなく、私の眼をとおして互いを視て欲しい。 神が私を視てくれたように、周りの人を視よう。 |
2006年9月10日(日) 年間第23主日 マルコによる福音書7章31節-37節
イエスは舟。 乗船の資格を問う人々がいた。その上、彼らははなからある人々を乗船拒否し、置き去りにしていた。というのは、彼らは宗教上その人々を「罪人」と呼び、共同体から排除していたから。その人々には病人も入っていた、病気は神の罰と考えられていたから。 しかし、他方、病人たちを舟に乗せようとする人々もいた。彼らは病人をイエスのもとへ「連れて来た」のであった。 イエスは「連れて来られた」病人を悪しき心の人々、伝統にしがみついている人々の神から「連れ出し」、桎梏を「開かせ」、全身を「解かれた」のだ。あなたたちこそ、真っ先に舟に乗りなさい、神はあなたたちの神だ、と。 既に、舟に乗せていただいた私たちは、困難にある人々を顧みるよう呼ばれている。イエスという舟のあることを伝える使命が、私たちには与えられているのだ。 |
2006年9月17日(日) 年間第24主日 マルコによる福音書8章27節-35節
イエスは舟。 イエスの舟は人生は素晴らしいと宣言し、航海を続けて行った。人々は続々と乗船してきた。その舟の中で兄弟愛を持って生きることに人生の喜びを感じていた。 ところが、先に乗船した者のうちに我こそはリーダーだと勘違いする者が出て来た。いずれは、イエスから莫大な報償が与えられるのではないかという誘惑にかかり始めた。 そんな彼らにイエスは諭された。この航海は今は順調だ、しかし、やがて、必ず、危機が来る。天変地異、紛争、飢餓、病気によって乗客全員の命が危険に晒される。その時こそ、わたしたちの意義がある、一目散に舟を離れて逃げて行くのか、それとも、小さき人々と共に居続けるのか、私は後者を選びたい、あなたたちはどうか。 イエスの目線はいつも小さき者たちに向かっていた。それに較べ、俺たちは自分ばかりだ、と彼・彼女らは気付いたことだろう。このイエスを救い主としてついて行くことを改めて決意しただろう。 |
2006年9月24日(日) 年間第25主日 マルコによる福音書9章30節-37節
イエスは舟。 航海は続く。人は滑稽だ、誤解、無理解を繰り返す。 またもや、先に乗った乗客たちは一悶着。というのは、他の乗客らの世話をしてきたことを評価されたい、そして、自慢して、他者との優劣をつけたいとの欲が出て来たのだ。せっかく、世間という荒波で溺れかけていたのを、イエスの舟に助け出されたのも束の間、なんと、イエスの舟を世間にして再び争い合う始末。誰が一番か。 そんな彼・彼女らにイエスは腰を下ろして語られた。よし、そんなに一番になりたいなら、仕える人、このような子どもたちが幸せになるよう世話する人になってください。誰が一番世話のできるか競争してみたら、と。 言われた人々は、困惑した。イエスはなんてこと言うんだ。よりによって、一番偉い奴はうちの母ちゃんじゃないか。あの糞餓鬼どもを朝から晩まで大声張り上げ、髪振り乱して世話している母ちゃんなんだ。今までは散々バカにして見下していたのに。よーし、それなら母ちゃんをまねしてみよう。しかし、困ったぞ、そのためには仕事を続けられないし、遊びや飲みにも行けなくなるぞ。やっぱり、止めだ。一番になるのは止めた。 今日もイエスは私たちの目線を変えようとされる。自分が人の上に立つことから、お陰様と感謝することへ。母ちゃんたちにありがとうと言おう。(※母ちゃんは例えです。) |
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