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2006年8月6日(日) 主の変容 マルコによる福音書9章2節-10節
イエスは舟。 人生航海の途中、艱難は幾度か。その都度、私たちの乗っている舟は大丈夫かと疑い恐れ不安になる。しかし、この世では絶対確かなものはない。家族、地域、国家、企業、金、等など。 イエスもまた然り。彼には見栄えのするものは何もない、この世の保証するものは何一つない。見るべきものと言えば、唾棄すべき恥辱の十字架刑死のみ。 イエスはこの世的救いからは最も遠い。本田哲郎神父が言う、イエスは炊き出しの列に並ぶ方にいる、のだ。 人生航海で溺れている私たちの側にイエスはおられる。雲の中から聞こえた、神の声はそう言っている。「彼に聞け」 |
2006年8月13日(日) 年間第19主日 ヨハネによる福音書6章41節-51節
イエスは舟。 イエスははっきりとご自分の使命を告げられる。あなたがたに永遠の命を与えるために神から遣わされたのだ、と。 つまり、荒波で溺れかけているわたしたちの方へ手をすっと伸ばしている方がイエスなのだ。私につかまりなさい、そうすれば、死の淵から脱し、もっと豊かな人生が開かれるよ、と。しかし、つかまるか、否かはあなた自身の決断だよ、私はいつも手を伸ばしているだけだから、とイエスは言う。 自力で脱しうる、あるいは、他の救助者を待つ、更に、溺れかけていることもわからない私たちにはイエスの心遣いに気がつかないであろう。イエスは十字架死まで待ち、今も待ち続けている。 さあ、イエスの手をしっかり握ろう。イエスはもう私たちを離さない。豊かな人生に導いてくださる。 |
2006年8月20日(日) 年間第20主日 ヨハネによる福音書6章51節-58節
イエスは舟。 イエスの腕に捕まったとき私たちの人生は新しくなる。 イエスの生涯というレンズを通して見るならば、私たちの命は神の命に触れる。 「一粒の麦が死に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ。」死が多くの実を結ぶこと。 「友のため命を捨てるより大きな愛はない。」捨てることの偉大さ。 自己保存、私欲の増大こそが価値あるとするこの世界とは別の生き方が展開されている。 イエスを師とし、糧として生きて行こうとするとき、イエスは決して見捨てない。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」 さあ、イエス共に航海しよう。 |
2006年8月27日(日) 年間第21主日 ヨハネによる福音書6章60節-69節
イエスは舟。 新たな航海をと、イエスの腕に捕まり、引き上げられて前へ進み始めた。イエスの舟の安心さははっきりしている。必ず、私たちの人生を豊かにしてくれると。しかし、その豊かさは目に見えたり、触れたりできる即物てきなものではない、そこが、もどかしく、歯がゆい、手近な幸福を得ようとあせってしまう。 イエスの導く豊かさとは神の世界、永遠の世界なのだ。その豊かさにはイエスをとおしてしか触れ得ない。擬似イエス的な者は多い、しかし、十字架死まで行ったイエスはいない。私たちはそのイエスにおいて神に触れられる、豊かな命になることを信じるのだ。イエスの舟に乗るとはそれを選ぶことなのだ。 |
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