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2006年7月2日(日) 年間第13主日 マルコによる福音書5章21節-43節
イエスは舟。 人生航海は順風とはいかない。時には、病気を得て生きることが困難になる。けれど、その困難を分かち合い、見守ってくれる人がいれば心強い。12年間、血の病気を患った女性を支える人や社会はなかった。むしろ、彼女を白眼視し、金をまきあげ、邪魔者として放り出してしまう社会や人しかいなかった。彼女には乗る舟がなかった。荒海に一人投げ出された人生だった。 イエスはまさに舟。彼女のような困難な生を強いられている人々のもとへ遣わされた。 私たちは、既に、安心して航海を続けられている。その喜びを彼女らに伝えたい、自らイエスの子舟になって漕ぎ出そう。 |
2006年7月9日(日) 年間第14主日 マルコによる福音書6章1節-6節
イエスは舟。 私たちは、その人生航海をイエスという舟に乗った。それは、イエスに呼ばれたから、あるいは、病気の女性のように賭けたからだ。ということは、それまで馴れ親しんでいた舟を乗り換えた、捨てた、と言うことだ。当然、乗りなれたもの、親しんだ人や物、染み付いた考え方や価値観と別れなければならない。しかし、自己を再生し、他者と出会える航海となったことを知ったし、これからも続くことを信じている。 私たちは、依然、古い舟に乗ったままの人に呼びかけよう。 こっちの舟はあ〜まいぞ。 |
2006年7月16日(日) 年間第15主日 マルコによる福音書6章7節-13節
イエスは舟。 私たちの周りには、一人で悩み苦しんでいる人たちがなんと多くいることだろう。悩みは、経済問題、職場での問題、依存症のこと、就職のこと等々、荒海に一人投げ出された人たちだ。しかし、私たちは気づかない、本人がSOSと言って飛び込んで来るまで知ろうとはしない。そんな私たちをイエスは派遣する。しかも、徒手空拳で。自己を誇るためにではなく謙虚に苦しむ人と出会うために。 イエスの舟から下り、声をかけ、手を伸ばそう、イエスが居られることを告げに行こう。 |
2006年7月23日(日) 年間第16主日 マルコによる福音書6章30節-34節
イエスは舟。 今、パレスティナ、レバノンを思うと胸が痛い。人々の苦痛、悲しみはいかばかりだろう。人々、特に、老人、女性、子どもたちは漂流している。悪の大きな力に翻弄されている。 イエスの眼は、彼・彼女らに向けられている。こんな私に何が出来るのだろう、と嘆いている。そして、行動した。十字架の刑死まで。 私たちも、彼・彼女らに出会って心動かされる。しかし、何も動かない。 イエスに祈ろう、私を動かせてくれ、と。 |
2006年7月30日(日) 年間第17主日 ヨハネによる福音書6章1節-15節
イエスは舟。 この奇跡物語、5千人への供食物語の背景には原始キリスト教団での聖餐式があっただろうと考えられている。聖餐式、即ちイエスご自身は多くの飢えた人々の必要を満たすものであると説明したのではないか。特に、このヨハネ福音書ではイエスの提供するものは肉的ではなく霊的なものであると展開されている。 さて、今日の箇所での特徴的なことは、イエスが人々を座らせなさいと弟子に命じたことだ。原語では横たわらせなさいとなっている。即ち、イエスは来た人を誰一人拒むことなく、丁重に迎えもてなし、食卓に着かせられたということだ。 イエスのこの開放性、仕えようとする気持ちは、私たちにもそうあるよう、呼びかけられている。 イスラエルとレバノンでの戦闘も、このイエスの開放性、もてなす生き方がその事態を変えるかもしれない。 私たちもイエスの心をパンとして食べよう。 |
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