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2006年6月4日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書15章26節-27節,16章12節-15節
イエスは私たちを証し人とする。 イエスとの出会いは人々を黙らせない。与えられた幸い、恵みを語らずにはいられない。洗礼者ヨハネ、その弟子のアンデレ、シモン・ペトロ、フィリポ、ナタナエルなどの弟子たちをはじめ、カナの婚礼の世話役人、病を癒された人々、例えば、ベトサダの池の病人、生まれつき目の見えない人、等々。マグダラのマリアもしかり。福音書の物語は、彼・彼女らのイエス証言に溢れている。 その物語は私たちの物語でもある。私たちも彼・彼女ら同じようにイエスから慰められと力を与えられ、目が開き、渇きを潤し、何度立ち上がれたことだろう。この喜びを伝えずにはおれない。 聖霊はその私たちを連れ出す。証しに行くようにと。 |
2006年6月11日(日) 三位一体の主日 マタイによる福音書28章16節-20節
イエスは私たちを宣教へ派遣する。 イエスとの出会いは、私たちを古い自分と決別させる。言わば、一度、自分に死ぬ、ということ。しかし、それは、痛いし怖い、何よりも頼れるものを失ってしまう。イエスに頼りたいのだけれど、やっぱり、お金や物、古い自分に縋ってしまう。 そんな優柔不断な私たちにイエスは言う、」あなた方は父と子と聖霊の名による洗礼を受けているのだと。何と言うことだ、私たちには、父であり、子であり、聖霊である神がついているのだ。神は「父」ではくくれない、広大無辺な、その神がいつもいてくれるのだ。 古い自分よ、さらば。三位の神がいられるから。 |
2006年6月18日(日) キリストの聖体 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節
イエスはとことん付き合ってくれる。 最後の晩餐を楽しもうと思ったイエス、しかし、その席上にはイエスが心配する弟子ばかりいた。ユダをはじめ弟子たちは覚束なかった。イエスは知っていた、苦難にあって弟子たちは去って行くことを、しかも、決して責められないことを。イエスは決意した、これら弱い弟子たちを見捨てないことを、何があっても彼らを守り、そばにいることを。 このパンと酒を食い飲む度に、俺を思い出してくれ。お前たちを見守り続けている俺がいることを。 イエスは私たちの支え。 |
2006年6月25日(日) 年間第12主日 マルコによる福音書4章35節-41節
イエスは船。 人生は航海に譬えられる。そして、私たちはその航海にイエスという船を選んだ。しかし、その船に乗る私たちはこの弟子たちのように、嵐が吹けば右往左往、怖じ惑うばかりの者たちだ。けれど、イエスは平然と構えられている、眠っているのだ。あるいは、ぼやいているかもしれない。またか、と。 イエスという船に最後まで乗って行こう。私たちの乗れる船はイエスしかないのだから。 大船に乗ったつもりで。 |
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