ももちゃんの一分間説教




今週の一句
卯の花の 水差し一つ 通夜の席

―もとゐ―


 2006年5月7日(日)
 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章11-18節

10,11 〔そのとき、イエスは言われた。〕わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10,12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10,13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10,14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10,15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10,16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10,17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10,18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 イエスは良き羊飼い。

 イエスの十字架事件、弟子たちをはじめ彼に出会った人々はそこに何を見出したのだろうか。

 ある人々は、イエスが良き羊飼いであることを見出した。イエスは人と命がけで関わった。私のために死をも厭わなかった、と、姦通の現場で取り押さえられた女性はそう思っただろう。弟子たちは自分たちの裏切りには一声も発せず刑死して行ったイエスに、羊のため命を捨てる姿を見出したことだろう。

 そのイエスに出会った彼・彼女らはまた宣教に命を懸けた。

 今、私たちも命を捨てよう。小さくさせられた人々と共に生きるために。
今週の一句
なんじゃもんじゃ 行き交う人の 眼輝き

―もとゐ―


 2006年5月14日(日)
 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書15章1-8節

15,1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15,2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15,3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15,4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15,5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15,6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15,7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15,8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 イエスは招く。

 イエスは私につながれ、留まれと呼びかける。あのサマリアの井戸の女性、彼女は生き難かった。頼っても頼っても不安、渇望、焦燥があった。イエスは彼女が頼るべきものを差し出された、ご自身を。裏切りの故に一切と手を切り、自己を責めていた弟子たちにイエスは呼びかけた、私につながれと。

 また、私たちも孤独であったとき、イエスは訪ねてくれ声をかけられた、休みなさいと。

 私たちは出かけよう、あなたを一人ぼっちじゃないよ、イエスがおられますよ、と呼びかけに行こう。
今週の一句
雨上がり 万緑の光 頬なでる

―もとゐ―


 2006年5月21日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書15章9-17節

15,9 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15,10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15,11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15,12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15,13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15,14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15,15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15,16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15,17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 イエスは私たちを友と呼ぶ。

 福音記者ヨハネは十字架の刑死に至るまでのイエスの姿に、私たちへの愛、友と呼ぶ関わりを見出した。そして、そのイエスにとどまれとヨハネは呼びかける。

 しかし、そのイエスは特別な人、強い人、神的存在ではない。疲れ、喉を渇かし、宴会好きで、苦しむ人に出会えば、涙し、憤り、心を強く動かされ、ついには、罪人と並んで十字架にぶらさげられる人であった。

 私たちはそのイエスに親しさを覚える。そして、可能性を与えられる。同時に深い深いつながりを覚える。

 さあ、大船に乗って漕ぎだそう。苦しむ人から友と呼ばれるために。
今週の一句
万緑に 包まれて食う バーベキュー

―もとゐ―


 2006年5月28日(日)
 主の昇天

 マルコによる福音書16章15-20節

16,15 〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、〕言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16,16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16,17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16,18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
16,19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16,20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 イエスは私たちの王。

 イエスは権力によって惨殺された。理由は、貧しい者や病人らの小さくさせられた人々と生きたから。弟子たちも、裏切りによって自らの小ささを知った。

 しかし、イエスの自分たちへの限りない愛に気づいたとき、目が覚めた。彼・彼女たちは慰めと生きる勇気を頂いたことを。そのイエスはすべての人々、特に、小さくさせられた人々の王になって欲しい、その熱い思いは彼・彼女を駆り立てた、全世界へ。

 私たちも、イエスから大事にされていることを思い起こそう。そして、伝えに行こう、イエスは王、友であることを。


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