ももちゃんの一分間説教



今週の一句
沿線の 菜の花風に 揺らめきぬ

―もとゐ―


 2006年3月5日(日)
 四旬節第1主日

 マルコによる福音書1章12節-15節

1,12 〔そのとき、〕“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1,13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
1,14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1,15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエスは荒れ野に遣わされた。

 ここは、マルコ福音書のプロローグ。これから始まるイエスの神の国宣教が、荒れ野での悪魔との戦いであることを示している。

 私たちも、イエスと同じく神からこの世界に宣教するよう呼ばれている。「神の国」の宣教は、一人一人を大切にしよう、とあたりまえのことなのだが、それが、この世では自己中心主義や利己主義から受け入れられないところに、戦いがある。

 しかし、マルコは神がいつもいてくださったから、イエスが戦いに勝利した、だから、わたしたちも信頼して宣教へ進めと招く。

 さあ、信じて前へ歩き出そう。命を守る戦いへ。
今週の一句
うららかや ひらひらと舞 紋白蝶

―もとゐ―


 2006年3月12日(日)
 四旬節第2主日

 マルコによる福音書9章2節-10節

9,2 〔そのとき、〕イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9,3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9,4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9,5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9,6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9,7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9,8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9,10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

 遣わされたイエスは神の子。

 マルコはここまで、イエスの宣教旅行についてきた読者に、あらためて、イエスは神の子であることを示している。これまで、イエスは病に苦しむ人、差別や虐げに苦しむ人、飢えに苦しむ人のもとへ、神のいることを身をもって証しされた。そこまでを見ると、ミラクルマン・イエスのかっこよさに酔ってしまう。弟子たちと同じように読者の目は眩まされている。イエスの語る苦難、十字架を背負う信従を受け入れない。人間的見方で、イエスを理解したつもりになってしまう。

 それに対し、マルコは神の「これに聞け」と読者、私たちの目を向けさせる。イエスの理解は十字架に刑死するイエスから聴くしかないこと。苦難の道を歩むイエスに目を留めること、だと呼びかけている。

 私たちも、自分と周りをこの十字架のイエスから聴いて、見て、関わって行こう。
今週の一句
豊作を 寄り添い祈る 満作かな

―もとゐ―


 2006年3月19日(日)
 四旬節第3主日

 ヨハネによる福音書2章13節-25節

2,13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2,14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2,15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2,16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2,17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2,18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2,19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2,20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2,21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2,22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
2,23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
2,24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
2,25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 イエスは神殿に参る人々のところへ遣わされる。

 エルサレム神殿はユダヤの人々にとって信仰の中心だった。神への唯一の仲介者であった。というのは、神殿で捧げる生贄が神の憐れみを頂くものであったからだ。

 しかし、それが形骸化し、預言者たちは「犠牲よりもあわれみを」と神の声を告げた。

 貧しい人を虐げる人がどんな高価な犠牲を捧げても、神は喜ばれない。と。また、神殿は大祭司たちが貧しい人々からその信仰心を利用して、搾取し支配する場でもあった。

 イエスはその神殿が崩れると言った。イエスの十字架は貧しい者たちへの神のあわれみそのものだ、もう、犠牲を捧げなくてもいい、イエスにより頼む時、神は共にいてくださるのだから。

 イエスは神殿中心の信仰に疲弊しきった貧しい人々を解放した。私たちもイエスにより神との親しい交わりを無償で与えられた。その喜びを人々に伝 えよう、重荷を負っている人たちに。
今週の一句
水仙や 嵐の中に たおやかに

―もとゐ―


 2006年3月26日(日)
 四旬節第4主日

 ヨハネによる福音書3章14節-21節

3,14 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3,15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3,16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3,17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3,18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3,19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3,20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3,21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 イエスは世界に遣わされている。

 ヨハネ福音書を生み出した背景のキリスト教団は、ユダヤ教から異端として迫害されていた。

 にもかかわらず、ヨハネ福音書はここでイエスは世界を救うために神から遣わされたと宣言している。つまり、イエスはユダヤ教徒のみを対象とする排他的救済機関である神殿をはるかに超える、開かれた方であると言っている。

 神殿からの救いを得るには、人は犠牲獣を捧げるように絶えず功績を積まねばならなかった。その道は険しく狭い。しかし、神の愛は、イエスに留まること、つながることによって与えられ、私たちの生命は豊かになるのだ。誰もが迎えられ、ゆるされるのだ。

 イエスとの出会いは私たちを変える、人とつながる者へと。


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