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2006年3月5日(日) 四旬節第1主日 マルコによる福音書1章12節-15節
イエスは荒れ野に遣わされた。 ここは、マルコ福音書のプロローグ。これから始まるイエスの神の国宣教が、荒れ野での悪魔との戦いであることを示している。 私たちも、イエスと同じく神からこの世界に宣教するよう呼ばれている。「神の国」の宣教は、一人一人を大切にしよう、とあたりまえのことなのだが、それが、この世では自己中心主義や利己主義から受け入れられないところに、戦いがある。 しかし、マルコは神がいつもいてくださったから、イエスが戦いに勝利した、だから、わたしたちも信頼して宣教へ進めと招く。 さあ、信じて前へ歩き出そう。命を守る戦いへ。 |
2006年3月12日(日) 四旬節第2主日 マルコによる福音書9章2節-10節
遣わされたイエスは神の子。 マルコはここまで、イエスの宣教旅行についてきた読者に、あらためて、イエスは神の子であることを示している。これまで、イエスは病に苦しむ人、差別や虐げに苦しむ人、飢えに苦しむ人のもとへ、神のいることを身をもって証しされた。そこまでを見ると、ミラクルマン・イエスのかっこよさに酔ってしまう。弟子たちと同じように読者の目は眩まされている。イエスの語る苦難、十字架を背負う信従を受け入れない。人間的見方で、イエスを理解したつもりになってしまう。 それに対し、マルコは神の「これに聞け」と読者、私たちの目を向けさせる。イエスの理解は十字架に刑死するイエスから聴くしかないこと。苦難の道を歩むイエスに目を留めること、だと呼びかけている。 私たちも、自分と周りをこの十字架のイエスから聴いて、見て、関わって行こう。 |
2006年3月19日(日) 四旬節第3主日 ヨハネによる福音書2章13節-25節
イエスは神殿に参る人々のところへ遣わされる。 エルサレム神殿はユダヤの人々にとって信仰の中心だった。神への唯一の仲介者であった。というのは、神殿で捧げる生贄が神の憐れみを頂くものであったからだ。 しかし、それが形骸化し、預言者たちは「犠牲よりもあわれみを」と神の声を告げた。 貧しい人を虐げる人がどんな高価な犠牲を捧げても、神は喜ばれない。と。また、神殿は大祭司たちが貧しい人々からその信仰心を利用して、搾取し支配する場でもあった。 イエスはその神殿が崩れると言った。イエスの十字架は貧しい者たちへの神のあわれみそのものだ、もう、犠牲を捧げなくてもいい、イエスにより頼む時、神は共にいてくださるのだから。 イエスは神殿中心の信仰に疲弊しきった貧しい人々を解放した。私たちもイエスにより神との親しい交わりを無償で与えられた。その喜びを人々に伝 えよう、重荷を負っている人たちに。 |
2006年3月26日(日) 四旬節第4主日 ヨハネによる福音書3章14節-21節
イエスは世界に遣わされている。 ヨハネ福音書を生み出した背景のキリスト教団は、ユダヤ教から異端として迫害されていた。 にもかかわらず、ヨハネ福音書はここでイエスは世界を救うために神から遣わされたと宣言している。つまり、イエスはユダヤ教徒のみを対象とする排他的救済機関である神殿をはるかに超える、開かれた方であると言っている。 神殿からの救いを得るには、人は犠牲獣を捧げるように絶えず功績を積まねばならなかった。その道は険しく狭い。しかし、神の愛は、イエスに留まること、つながることによって与えられ、私たちの生命は豊かになるのだ。誰もが迎えられ、ゆるされるのだ。 イエスとの出会いは私たちを変える、人とつながる者へと。 |
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