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2006年2月5日(日) 年間第5主日 マルコによる福音書1章29節-39節
イエスは派遣される町々や村々へ。 イエスのいる所へ、病人や悪霊に取付かれた人々がやって来る。イエスが敢えて休む所へ行かざるを得ない程。にもかかわらず、イエスはなおも彼らの方へ出かけられる。 イエスは留まることを知らない。進んで出かけられる、とうとう、十字架上まで、貧しい人、病む人、悲しむ人を黙視できないから。 先日、拘置所へある人の面会のため行った。以前にも行ったことがあるが、あらためて、面会に来ている人の多さに驚いた。拘置所には被疑者や死刑囚がいる。その家族の心配、心痛は如何ほどだろうか。私の前の人は、我が子か夫かもしれないが、暖かい毛布を二枚差し入れた老年の女性がいた。彼女の思いは計り知れない。しかし、まぎれもなく、面会所にいる人々は何かを求めていることだろう。そこにも、イエスの行かれる人々がいる。私たちも、イエスの後について行きたい。 |
2006年2月12日(日) 年間第6主日 マルコによる福音書1章40節-45節
イエスは前へ進む。 途中、人里寂しいところを通りかかったとき、突如、一人のライ病者がイエスのもとへ駆け込んできた。あんたは「神の国がやって来た、やって来た」と触れまわっているが、こんな俺の所にでも来るのかい、と皮肉っぽくイエスに言った。というのは、ライ病者の彼には神も仏もなかった。むしろ、こんな非人間的状況に追い込んだのは神だったから。 彼はライ病者を山中に置き去りにしたままで、「神の国が来た」などと安易に言う者たちを我慢できなかったに違いない。 イエスは立ち止まった。そうか、こんなところに、えも言われぬ苦しみを負わされた人がいたのかと気づかされた。もっともだ、「神の国はこの人のところにこそ来た」。イエスは言った、「あなたはライ病じゃない。他の人がなんと言おうと、私はあなたが清いと言う。」そして、彼を抱きしめた。 私たちも、今日、出会う人の心の叫びを受け止める力を願おう。 |
2006年2月19日(日) 年間第7主日 マルコによる福音書2章1節-12節
イエスは生きづらくなっている人のもとへ遣わさられる。 私たちの周りには生きたいと願っているいるけれど、その願いが適えられない人が多数いる。貧乏であるとか、病気や障害であるとか、性の故であるとか、国籍や宗教などから疎外されている。それは違い、異質を認めない、受け入れない、さらに、その異質性を劣ったものと見なし、差別・抑圧する。結局は、エゴから来ている。自分さへ良ければ、人が生き辛くしていても、その体制に目をつぶっている。 居合わせた律法学者もそうだったろう。中風の人の苦しみ、悲しみには気がいっていない。目をつぶっていれば自分たちが安泰しておられる社会体制を揺さぶり、居心地を悪くするイエスの奇異な言動にだけ気が向いている。 イエスにとって苦しみにある中風の人を目の当たりにしてはほっておけなかった。律法学者たちの自分さへよければという頑ななあり方に腹がたった。それに対し、四人の仲間の「俺たちはこの中風の人をほっておけない、何とかに幸せになってもらいたい」という強い思いを、イエスは見た。そして、イエスもそうだと共感した。 中風の人を立ち上がらせたのは、四人とイエスの彼への熱い思いだったのだ。 私たちも生き辛い人々のもとへ行こう、そして、その状況を一緒に変えて行こう。 |
2006年2月26日(日) 年間第8主日 マルコによる福音書2章18節-22節
イエスの訪れはお祝い。 ライ病人や中風の人には春は来なかった。また、近づこうと思っても、遮られたし、誰も手を貸そうとはしなかった。宗教的、社会的に排除されていたから。 他方、学問もあり、社会的にも恵まれた人たちは春が来ているにもかかわらず、気づかず、春を手繰り寄せようと、重装備に身を固め懸命に背伸びしていた。断食、祈りや施し、掟の遵守の回数を競っていた。 イエスの登場、春が来たこと、春であることを身をもって知らせた。ライ病人と交わり、中風の人を友人たちと一緒に起き上がらせた。人生は祝宴である、と共に味わった。ファリサイ派の人々には目を開けること、鎧を捨て、委ねるよう、祝いに加わるよう招かれた。 私たちも、春を喜ぼう、祝いに参加しよう。厚い上着を脱ぎ捨てて。 |
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