|
2006年1月1日(日) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
マリアは思い巡らしていた。 羊飼いらは天使の呼び声に従った・「大きな喜び、あなたがたの救い主」を捜しに。そして、見出した、自分らと同じ境遇の夫婦を。不本意な旅に疲れ、夜露に濡れる家畜小屋で飢えと寒さに震えながら乳飲み子を抱きかかえている二人を。彼らは不可思議だった、何で、こんなものが「大きなよろこびであり、救い主の徴」なんだ。 一方、マリアたちは喜んだ。疲れと寒さ、無視により心細かった自分たちを、身近な羊飼いたちが訪問し、天使の声を伝えてくれたことを。 マリア、羊飼いたちは「大きな喜び、救い主誕生」の意味を見出した。自分たちの境遇が劇的に変ることない、その苦難のなかで、弱い者同士が訪ね、声をかけ、喜びを伝えあうこと、そこにあることを。 神の喜び、救いは与えられるものではない、見出し、伝えることにあるのだ。 世界の苦難は終わることがない、しかし、私たちが苦難にある人々のもとへ行き、声を掛け合うところに愛と希望が生まれるのではないだろうか。そして、世界を変えて行く勇気を得られるのではないだろうか。2006年をその年にして行こう。 |
2006年1月8日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
神は学者たちを遣わされた。 私たちは誰でもイエスを証しするため神から派遣されている。羊飼いもその境遇ゆえにマリアたちと連帯するため神から遣わされた。東方の学者たちもそうだ。占星術の専門家だったため、いち早く、星の意味を悟り、エルサレムに住む人々に知らせた。しかも。学者たちは権力者ヘロデに従うのではなく神に従った。まかり間違えば、ヘロデに殺されたかもしれないのに、ヘロデにユダヤ人の王が生まれたと告げた。 新年早々、小泉首相は靖国参拝に日本人が批判するのは理解に苦しむと言った。私たちは戦争を肯定する力を王とするより、命を大切にするイエスを王と呼びたい。 学者ではない私たちも各自の場からイエスを世に証しする使命を与えられている。 |
2006年1月15日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章35節-42節
神は弟子たちを派遣される。 洗礼者ヨハネは二人の弟子にイエスを紹介した。アンデレはイエスについて行き、弟ペテロにイエスを証しした。ここに、私たちキリスト者の使命がある。何と恵まれたことだろう。何をすべきかわからない人々の多い現代にあって。 イエスを証しするとは、人々に人生の夢と希望を与えることではないか。というのは、アンデレやペテロはそれによって人生の意義、目的、生き甲斐を見つけたからだ。マリアもガブリエルによって、学者たちも、ヨゼフ、羊飼いも幸いを得た。そして、私たちも。 ということは、私たちのイエス証人、それはイエスを「神の子羊」「救い主」を紹介することではなく、出会う人々に喜びと幸いを告げることに他ならない。 イエスからいただいた恵みを特に、苦しんでいる人々に運んで行こう。 |
2006年1月22日(日) 年間第3主日 マルコによる福音書1章14節-20節
イエスは派遣された。 ガリラヤでのイエスの一声。「ナザレから、何かよいものがでるだろうか」とナタナエルに言わしめたところ。それは、羊飼いたちが家畜小屋で見た嬰児イエスの姿に共通している。それは人からは決して賞賛されない、見栄えのない、むしろ、軽蔑されるところに神が居られることだ。ガリラヤ、マリアとヨゼフ、羊飼い、家畜小屋の嬰児たちのところ、現代の難民キャンプ、移住労働者、病者、孤児たちに神が居られることをイエスは伝えに遣わされたのだ。 私たちも神の居るところへ出かけよう。 |
2006年1月29日(日) 年間第4主日 マルコによる福音書1章21節-28節
イエスは囚われ人のもとへ遣わされる。 会堂、シナゴーグそこではイスラエルの人々が安息日毎に集い、神の言葉を聞き、人生の意味、生命の恵みを受け、神に賛美と感謝を捧げた所だ。神の言葉は、十戒を中心に、人生の幸いは神への愛と隣人への愛から得られることを説かれたことだろう。そう、これは、今の教会のミサにも通じる。 ところが、その会堂には汚れた霊に悩まされた人がいた。つまり、会堂での有難いお説教はこの汚れた霊に憑かれた人には向いていなかった。現代でも、教会の言葉は死に囚われた人々には届いていない。 イエスはその悪霊に囚われた人のもとへ遣わされた。神がその囚われ人と関われる方であることを告げるために。イエスは彼に向き合った。そして、悪霊は出て行った。 人々は驚嘆した。神が病める人、囚われた人々に関われることに。 私たちも、教会の内外にいる苦しむ人々のもとへ行こう。 |
|