ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年12月4日(日) 待降節第2主日 マルコによる福音書1章1-8節
目覚めよ、とイエスは呼びかける。 終末にメシアが来られる、とユダヤの人々は期待していた。ある人たちは、洗礼者ヨハネがそうだと思っていた。また、ある者たちは、イエスこそがそうだと思った。後者は原始キリスト教団であった。なぜ、原始キリスト教団はそう考えたのだろう。イエスの死はあまりにも無惨だったのに。 十字架の死を受けとめたイエスに彼らは何かを見たのに違いない。 「洗礼者ヨハネは水の洗礼を授けた」即ち、ヨハネは神を自らのうちに取り込もうとした。救いが得られように。他方、「イエスは聖霊の洗礼を授けに来る。」つまり、イエスは救われた者、愛された者として神において自由に生きられた、委ねて生きられたことを見出したのではないか。 「目を覚ます」とは、神が愛されている者であることに気づこと。そして、私利私欲を離れ、小さくさせられている人の友となろう。 |
2005年12月11日(日) 待降節第3主日 ヨハネによる福音書1章6-8節、19節-28節
洗礼者ヨハネは「荒野の叫ぶ声」。 イエスは神から遣わされた。ヨハネも派遣された、イエスを証しする者として。また、レビ人や祭司は派遣された、エルサレムのユダヤ人から。 私たちが今ここにいる、生きているのは遣わされたからだ。いいかえれば、ミッション、各自の使命をいただいているのだ。しかし、問題は誰からいただいているのか、神からかこの世の権力者からか、あるいは、自分からか。 レビ人や祭司は誤った。己の人生を権力者に委ねてしまった。結果、彼らの使命は、ヨハネの探索、権力者を守るための道具になることであった。 ヨハネやイエスは神を証しする使命をいただいた、即ち、人を生かすことに意味を見出した。 わたしたちは自分の生きる意味をヨハネやイエスに見出そう。 |
2005年12月18日(日) 待降節第4主日 ルカによる福音書1章26節-38節
神はガブリエルを遣わされる。 天使ガブリエルは神からマリアのもとに遣わされた。「天使」とは「使者」という語から来ているから、本来の勤めを果たしている。では、何の使者か、それはマリアに生きることをすすめることであった。マリアは自分の身に起こったことに耐えられなかっただろう。その理不尽さ、狂気、暴力におののき身を震わせ、無理解や嘲笑、蔑視の孤立無援に生きる未来、術をもてなかっただろう。 そのマリアのもとへガブリエルが使わされたのだ。「主があなたと共におられる、聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」神はあなたを裁かない、あなたを抱きかかえる、泣きなさい、頼りなさい、安心しなさい、とガブリエルはマリアを慰めるのであった。 私たちも神から遣わされた者、天使だ。今、飢え、泣いている人々のところへ行こう。いっしょに、生きよう、と。 |
2005年12月24日(土) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
神は天使を羊飼いらのもとへ遣わされた。 マリアは恵まれた方と祝福された。しかし、彼女の受ける苦痛は相変わらずだ。その上、人口登録のために身重にもかかわらず強制移動させられる。しかも、野宿での出産。苦しみは彼女に何倍ものしかかってくる。 羊飼いら、一晩中、野宿しながらの羊の見守り、そのきつい仕事には移住者、前科者、極貧者、いわば、社会の落ちこぼれがなったという。その彼らに、天使が遣わされ、「大きな喜び。あなたがたのための救い主が生まれた」と告げられた。そうは言われても、彼らの過酷な状況は依然続く。しかも、その徴が飼い葉桶の幼子、彼らの日常となんら変らないものだ。 底辺にいる人々の苦しみ、悲しみは執拗に続く。だからこそ、神は彼・彼女らを愛される、大切にされる。天使のお告げの「あなたがたのための救い主」それは、「あなたがたをいつも忘れない、いつも、共にいるよ。」との神からのあったかいメッセージなのだ。 物質的に恵まれた私たちは、彼・彼女らと共にいよう。 |
|