ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
見上げれば 銀杏色づき 空高く

―もとゐ―


 2005年11月6日(日)
 年間第32主日

 マタイによる福音書25章1-13節

25,1 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
25,2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25,3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25,4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
25,5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
25,6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25,7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25,8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25,9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
25,10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25,11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25,12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25,13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 イエスは目を覚ましていなさいと呼びかける。

 人生は想定外だ。ファリサイ派や律法学者はそれまでの教えを守ってきたからこそ、幸い、神の国を得られると信じていた。が、イエスがやって来て、それは誤りだ、遊女や税金取りの方が先に入る、と言ったのだから、その想定外に彼らは耳を塞いでしまった。ランプは持っていたのだが、油を持っていなかったのだ。

 幸い、神の国は想定外だ。こんな私に?なのだ。貰うのが当たり前、くれなきゃもんく言う、のではないのだ。西行の、かたじけなさに涙こぼるる、ではないだろうか。

 この神の優しさに、今日こそ頑張ろう!!

※朝日さすかしまの杉にゆふかけてくもらず照らせ世をうみの宮
  何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる  〔西行〕
 
今週の一句
残り柿 朝陽輝き 出勤の路

―もとゐ―


 2005年11月13日(日)
 年間第33主日

 マタイによる福音書25章14-30節

25,14 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25,15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25,16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25,17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25,18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25,19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25,20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25,21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25,22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25,23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25,24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25,25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25,26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25,27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25,28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25,29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25,30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 神は呼ばれている。

 人は誰しも人生を良きものと願う。では、その願いを適えるにはどうしたらいいのだろうか。

 それぞれの人生の出発点は異なる。時には、理不尽かと思える格差がある。境遇や能力の差に歯がみすることもある。また、悔しさをバネに跳躍することもある。いずれにしろ、そこには能力主義、成果主義がる。つまり、人に比べて自分の人生は良かった、悪かったと。ファリサイ派的人生観だ。

 マタイは神の国はそうではない、と教える。神は各自の誠実さ、即ち、人生にどう向き合って行くかを問われる。弱い立場の方と出会ったとき、避けるのか、無視するのか、関わって行こうとするのか、成果ではなく、過程を見られるのだ。1デナリオンを損しないようにとするのか、失っても、神様がよろこんでくれるからだとするのかだ。イエスは後者だった。

 今日も、こんな私を用いようとされる神様に賭けてみよう。 
今週の一句
玉ねぎの 苗植え終えて 夕日落ち

―もとゐ―


 2005年11月20日(日)
 王であるキリスト

 マタイによる福音書25章31-46節

25,31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25,32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25,33 羊を右に、山羊を左に置く。
25,34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25,35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25,36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25,37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25,38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25,39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25,40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25,41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25,42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25,43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25,44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25,45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25,46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 神の幸いは計り知れない。

 イエスは人生を良きもの、幸いを得たいと思うなら、神を愛し、人を愛そう、と身をもって示された。

 しかし、私たち人には神と弱い立場の人への愛、奉仕をたやすくできない。ただ、出来ないことを知らされる。右側に分けられた人のように、王に「したでしょうか。」と嘆き、後悔するしかない。

 けれど、イエスはそんな私たちを受け容れてくださる。全くの恵みとしか言いようのないことだ。イエスの十字架死はその表れだ。かくも、イエスが私たちを遇するのは何故か。もう一度、私たちが弱い立場の人と関わって行くためだ。

 不完全な私たちに再び、生き甲斐とやりがい、人生の幸いをイエスは与えようとされるのだ。

 このイエスの計り知れない関わりこそ私たちの人生の幸いがある。

 躓き、傷つきながらも、イエスの招きに応えて続けて行こう。 
今週の一句
初霜や 昨日の草木 何処へぞ

―もとゐ―


 2005年11月27日(日)
 待降節第1主日

 マルコによる福音書13章33-37節

13,33 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13,34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13,35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13,36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13,37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 イエスは小さくさせられた人々として私たちのところへ来られる。

 マルコの生きた時代、対ローマ戦争、大飢饉、大地震で、暴力と殺戮、飢え、教会への迫害が渦巻いている中、キリスト教徒は終末を見、神の来臨を切に待望していたことだろう。だからこそ、キリスト教徒は「目を覚ましていなさい」とのメッセージを受けていたのだろう。

 では、今日に生きる私たちが「目を覚ませ」とのメッセージをどのように聞いたらいいのだろうか。やはり、世界の情勢へと目をやり、小さくさせられた人々の苦しみ、悲しみに目を留めることではないだろうか。というのは、そこに、神、イエスがいるからではないか。現代の教会は「目を覚まさ」なければならない。そこに、生きる喜び愛※@があるからではないか。

※@待降節―「愛と喜びに包まれた待望の時」  『毎日のミサ』2005年11月号 頁112より


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