ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年11月6日(日) 年間第32主日 マタイによる福音書25章1-13節
イエスは目を覚ましていなさいと呼びかける。 人生は想定外だ。ファリサイ派や律法学者はそれまでの教えを守ってきたからこそ、幸い、神の国を得られると信じていた。が、イエスがやって来て、それは誤りだ、遊女や税金取りの方が先に入る、と言ったのだから、その想定外に彼らは耳を塞いでしまった。ランプは持っていたのだが、油を持っていなかったのだ。 幸い、神の国は想定外だ。こんな私に?なのだ。貰うのが当たり前、くれなきゃもんく言う、のではないのだ。西行の、かたじけなさに涙こぼるる、ではないだろうか。 この神の優しさに、今日こそ頑張ろう!! ※朝日さすかしまの杉にゆふかけてくもらず照らせ世をうみの宮 何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる 〔西行〕 |
2005年11月13日(日) 年間第33主日 マタイによる福音書25章14-30節
神は呼ばれている。 人は誰しも人生を良きものと願う。では、その願いを適えるにはどうしたらいいのだろうか。 それぞれの人生の出発点は異なる。時には、理不尽かと思える格差がある。境遇や能力の差に歯がみすることもある。また、悔しさをバネに跳躍することもある。いずれにしろ、そこには能力主義、成果主義がる。つまり、人に比べて自分の人生は良かった、悪かったと。ファリサイ派的人生観だ。 マタイは神の国はそうではない、と教える。神は各自の誠実さ、即ち、人生にどう向き合って行くかを問われる。弱い立場の方と出会ったとき、避けるのか、無視するのか、関わって行こうとするのか、成果ではなく、過程を見られるのだ。1デナリオンを損しないようにとするのか、失っても、神様がよろこんでくれるからだとするのかだ。イエスは後者だった。 今日も、こんな私を用いようとされる神様に賭けてみよう。 |
2005年11月20日(日) 王であるキリスト マタイによる福音書25章31-46節
神の幸いは計り知れない。 イエスは人生を良きもの、幸いを得たいと思うなら、神を愛し、人を愛そう、と身をもって示された。 しかし、私たち人には神と弱い立場の人への愛、奉仕をたやすくできない。ただ、出来ないことを知らされる。右側に分けられた人のように、王に「したでしょうか。」と嘆き、後悔するしかない。 けれど、イエスはそんな私たちを受け容れてくださる。全くの恵みとしか言いようのないことだ。イエスの十字架死はその表れだ。かくも、イエスが私たちを遇するのは何故か。もう一度、私たちが弱い立場の人と関わって行くためだ。 不完全な私たちに再び、生き甲斐とやりがい、人生の幸いをイエスは与えようとされるのだ。 このイエスの計り知れない関わりこそ私たちの人生の幸いがある。 躓き、傷つきながらも、イエスの招きに応えて続けて行こう。 |
2005年11月27日(日) 待降節第1主日 マルコによる福音書13章33-37節
イエスは小さくさせられた人々として私たちのところへ来られる。 マルコの生きた時代、対ローマ戦争、大飢饉、大地震で、暴力と殺戮、飢え、教会への迫害が渦巻いている中、キリスト教徒は終末を見、神の来臨を切に待望していたことだろう。だからこそ、キリスト教徒は「目を覚ましていなさい」とのメッセージを受けていたのだろう。 では、今日に生きる私たちが「目を覚ませ」とのメッセージをどのように聞いたらいいのだろうか。やはり、世界の情勢へと目をやり、小さくさせられた人々の苦しみ、悲しみに目を留めることではないだろうか。というのは、そこに、神、イエスがいるからではないか。現代の教会は「目を覚まさ」なければならない。そこに、生きる喜び愛※@があるからではないか。 ※@待降節―「愛と喜びに包まれた待望の時」 『毎日のミサ』2005年11月号 頁112より |
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