ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年10月2日(日) 年間第27主日 マタイによる福音書21章33-43節
神は招かれる。 2000年前、マタイはエルサレム滅亡にイスラエルの背反を見た。神からの回心への招き、なかんずく、イエスの声に耳を貸さなかったことを。 私たちは今、地球温暖化、テロや戦争の激化、等に何を見るだろうか。やはり、あの農夫たちのように人間の傲慢、権威の乱用、富の私物化を見ざるを得ない。 イエスは呼びかける、あなたの人生、命、地球、世界、隣人は神から預けられたものだよ、それは、あなたが収穫物を神に捧げるためなのだ。私たちは神のように人々を愛し、人々に仕えよう、それが私たちの収穫物だよ、と。 神から託された命、地球が豊かになるよう、イエスの後に従おう。 |
2005年10月9日(日) 年間第28主日 マタイによる福音書22章1-14節
神は私たちを婚宴に招いてくださる。 マタイは先週と同じ主題を繰り返す。イスラエルの歴史を救済史的に解釈している。 何故、神の恵みがイスラエルから異邦人に移ったのか、を。それは、人々が神の誘いより、日常生活を優先したからとマタイは言う。 では、私たちにとって、日常生活より優先する神の婚宴、すなわち、神の国とは一体何だろうか。 例えば、二酸化炭素を減らすこととか、対テロ戦争より対話の道とか、貧困国の債務取り消しとか、等、長期的課題だけど、今取り組まなければならないことではないか。 つきつめれば、自分より全体、特に、弱い立場の人々のことを思い、取り組むことではないだろうか。マタイの言う神の憐れみを行うことだ。 とは言っても、明日のことを思い患う私たち。 回心しよう、三度の飯を考えなくてもよいような世界、関係を創って行こう。 |
2005年10月16日(日) 年間第29主日 マタイによる福音書22章15-21節
神は御国に招かれる。 三度の飯を思い煩う私たち。この人生は一体何なのだろう。何と虚しいことだろう。元ホームレスの方は言う、「飢えていたときはまず、食い物を探した。」彼らにそのような人生を強いるのは何なのだろう。 皇帝、この世の支配者に頼っているだけでは、飢えるしかない。イエスは私たちに、それ以外の人生を教えてくれた、「パンのみではなく、神の言葉によって生きるのだ」と。即ち、パンを分かち合うことを。自分だけのことではなく他者のことを思いやることを。 小泉流改革の幅をきかす今、もう一度、神のものは神に返す生を歩もう。 |
2005年10月23日(日) 年間第30主日 マタイによる福音書22章34-40節
神は御国に招かれる。 『星の王子様』に大人は数字が好きで、子どもはそのものを知りたがる、というところがある。まさに、イエスに質問した人々だ。 彼らにとって掟は手段だから、手っ取り早いのを選んだ方が都合いいからだ。 しかし、イエスは掟、つまり、神の言葉は人にとっての根源だと言う。人が何者であり、何をすべきか、人の本質を示している、と。 人は既に神から愛され大切にされている、かけがいのない者だ、それだからこそ、他者を大事にしよう、とイエスは語られる。 私たちは皇帝において他者と競争するのではなく、神において互いを大切にして行こう。 |
2005年10月30日(日) 年間第31主日 マタイによる福音書23章1-12節
イエスは私たちを神と人を大切にされるよう招かれる。 ファリサイ派や律法学者たちは、それを実行した。ところが、よく守ったがゆえに、自惚れてしまった。人々から「先生」「父」と呼ばれることを望んだ。自分が正しいと思いこみ、人を裁く者となってしまった。 そんな彼らをイエスは憐れまれて言われた、神と人を大切にすることとは、自己の過ち、無力さに気付き、へりくだって、人の兄弟と呼ばれるように、人に仕えさせてもらうことなのだ、なぜなら、神様が私たちの兄弟となり、仕えたからだよ。 パウロは弱さを誇ろうと言った。そこにこそ、私たちは神と人と出会えるのだ。 |
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