ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年9月4日(日) 年間第23主日 マタイによる福音書18章15-20節
イエスは小さくさせられた人々を見守る。 子どもを受け容れよう、小さい者をつまずかせぬよう、捜しに行こうとイエスは私たちに呼びかけられる。実は、私たち自身、イエスからそのように遇された。私たちのような者をさえイエスは受け容れてくださった。何故だろう。それは私たちが隣人を発見するたなのだ。自らを罪人であると知ったとき、隣人のゆるしに気付くのではないか。共に、歩ませてもらっていると。 イエスとの出会いは、私たちを隣人と共に歩ませる。 |
2005年9月11日(日) 年間第24主日 マタイによる福音書18章21-35節
イエスはどこまでも私たちと関わろうとする。 私たちは一体神様にどれだけの借金をしているだろうか。神様を言換えて地球だとか、親、兄弟、友人、知人、社会に対してはどうだろうか。 今回のカテリーナや台風14号の災害、イラク戦争、飢餓、エイズ、等は人災だし、親には迷惑かけっぱなしだ、また、友人・知人を裏切ることはしばしばある、周りの人々には罵詈雑言で傷つけたし、ときりがない。しかし、それでも、地球もエイズ患者も賠償しろとは言わない。無論、賠償できるわけでもない。なんと、私たちはゆるされて生きていることだろう。この自分の罪深さ、無責任を知ったとき、どうして、他者を責めることができるだろうか。 ところが、すぐその大恩を忘れ、他者を非難、攻撃しているのが常だ。それにもかかわらず、そんな私たちと関わろうとしているのがイエスであり、神なのだ。 イエスの後をついて行こう、何度、しくじってもイエスは待っていてくれるから。 |
2005年9月18日(日) 年間第25主日 マタイによる福音書20章1-16節
神はイエスをとおして私たちを限りなく愛される。 運動会の季節だ。いやな思い出がある。わたしはかけっこが嫌いだった。というのは、いつも後塵を走っていたからだ。どうあがいても、よくて4番、たいていは5,6番で、入賞は出来なかった。足の遅いことにそんなに気にしなければ良かったのに、子ども心に恥ずかしかったし、くやしかった。まあ、人は何か一つでも人より優れたものが欲しいいし、ほめられたい。4番より3番、できれば1番を欲しい。 しかし、今、思えば、私より足の遅かった人がいた。その人たちはどう思っていたのだろうか。私と同じ思いか、もっと寂しい思いだったかもしれない。私はその人たちのことを全く考えなかった。自分の悔しさだけで一杯だった。 公園のベンチに座っているホームレスの方のことを気にかけれる人になりたい。 |
2005年9月25日(日) 年間第26主日 マタイによる福音書21章28-32節
神は呼びかけ続けられる。 いいかっこしいは易きだが、疲れる。どうせ、すぐ本性がばれるのに、かっこつけるのが私たちだ。人の評判を気にして、ついにはにっちもさっちもいかなくなる。 イエスは神との関係を、神に気に入られることから、神が気に入っていることに向きを変えられた。神の裁く目を気にして、いいかっこを無理にするのではなく、神の優しい眼差しの前で、ありのままに、出来ないことはできない、やれることはやれるぐらいでいい、と。更に、任せていれば、すすんで、いやなこと出来ないことも出来るようにする、とイエスはご自身、証しされた。 神はありのままの私たちに声をかけられる。安んじて、生きよう。 |
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