ももちゃんの一分間説教

バックナンバー


今週の一句
道の端の 白く積もりし なんきんはぜ

―もとゐ―


 2005年8月7日(日)
 年間第19主日

 マタイによる福音書14章22-33節

14,22 〔人々がパンを食べて満腹した後、〕イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14,23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14,24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14,25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14,26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14,27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14,28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14,29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14,30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14,31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14,32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14,33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 イエスはご自身を人々に差し出される。

 イエスへの信仰、それは、今もなお、私たちのなかでイエスが生きて働いていることを証しすること。他方、ペテロはイエスを試した、「主よ、あなたでしたら」と。そこには、もし、本当にあなたであるなら、私の湖上歩行を助けるはずだ、という疑いがあった。

 イエスは人々にパンを分けたように、ご自身を差し出された。その事実は歴史上一回あった。だからこそ、イエスは今、生き、働いている。

 安心して、私たちはこの世の艱難に一歩進み出そう、「主よ、待っていてください」と。
 
今週の一句
そっと登る 夜更けの玄関 虫二匹

―もとゐ―


 2005年8月14日(日)
 年間第20主日

 マタイによる福音書15章21-28節

15,21 〔そのとき、〕イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15,22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
15,23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
15,24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
15,25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
15,26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
15,27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15,28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 イエスは今も生きて私たちのうちにいられる。

 ユダヤ教では女性や異邦人は差別されていた。

 母親は身を賭してイエスに食い下がった。娘を助けてくれと。イエスは彼女の信仰を讃えた。それは、湖上でのペテロの信仰に対比している。ペテロは疑った、イエス、つまり神を信頼していなかったのだ。ペテロは身を賭していなかったのだ。

 一方、母親は神を信頼しきっていた、否、神しか頼る術がなかった。小さい者を顧みられる神は、必ず、イエスをとおして私の娘を治してくれるはず、と。

 戦後60年、日本は弱者に冷たい社会になってきた。神を頼れる私たちは、自分のことより弱い立場の人々を優先できるようになりたい。
今週の一句
ヒグラシや 森の深みに 吸い込まれ

―もとゐ―


 2005年8月21日(日)
 年間第21主日

 マタイによる福音書16章13-20節

16,13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
16,14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16,15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16,16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16,17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16,18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16,19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
16,20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 イエスは小さき者に目を留められる。

 今朝のラジオで、アフガニスタンはイラクと同じく以前よりひどくなっていると報告があった。米軍が来る前は平和で長閑な農村であったのが、戦後、血なまぐさい地に変わり、診療所も閉鎖に追い込まれ、安心して暮らせなくなった、という。

 このような報道を聞くと、大国のエゴに腹がたつ。その米国に追随して行く日本にも同様だ。米国や日本をメシア、即ち、救い主と信じるのは空恐ろしい。

 イエスをメシアと信じる、いいかえれば、イエスをメシアとして忠実に仕えるとは、小さくされた人々と共にいる、ということだ。そのイエスがペテロを代表とする弟子たちを教会の土台としたことは、ペテロはじめ従う人々は小さくされた人たちに仕えることに他ならない。

 イエスへの忠誠は、米国や日本のあり方にノーを言うことになる。

 総選挙もイエスの目で注目して行こう。
今週の一句
鍵穴を 探していると 秋の蜘蛛

―もとゐ―


 2005年8月28日(日)
 年間第22主日

 マタイによる福音書16章21-27節

16,21 〔そのとき、〕イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16,22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16,23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
16,24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16,25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
16,26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
16,27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

 イエスへの信従は小さくさせられた人々と共にいること。

 イエスの福音は、生ある者が等しく大切にされること。イエスは出会った貧しい者、病人、虐げられた人々を大切にした。あなたがたは幸いだ、と神の近さを身をもって証しした。その結果、体制から処刑された。

 私たちは愛する者のためには命を捨てることもある。イエスとの出会いは、愛する者を拡げられた、出会う人々へ。すべての人が幸いになることが私たちの願いとなった。

 その願いが実現されるよう、苦しみを喜んで負って行いきましょう。


戻る