ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年8月7日(日) 年間第19主日 マタイによる福音書14章22-33節
イエスはご自身を人々に差し出される。 イエスへの信仰、それは、今もなお、私たちのなかでイエスが生きて働いていることを証しすること。他方、ペテロはイエスを試した、「主よ、あなたでしたら」と。そこには、もし、本当にあなたであるなら、私の湖上歩行を助けるはずだ、という疑いがあった。 イエスは人々にパンを分けたように、ご自身を差し出された。その事実は歴史上一回あった。だからこそ、イエスは今、生き、働いている。 安心して、私たちはこの世の艱難に一歩進み出そう、「主よ、待っていてください」と。 |
2005年8月14日(日) 年間第20主日 マタイによる福音書15章21-28節
イエスは今も生きて私たちのうちにいられる。 ユダヤ教では女性や異邦人は差別されていた。 母親は身を賭してイエスに食い下がった。娘を助けてくれと。イエスは彼女の信仰を讃えた。それは、湖上でのペテロの信仰に対比している。ペテロは疑った、イエス、つまり神を信頼していなかったのだ。ペテロは身を賭していなかったのだ。 一方、母親は神を信頼しきっていた、否、神しか頼る術がなかった。小さい者を顧みられる神は、必ず、イエスをとおして私の娘を治してくれるはず、と。 戦後60年、日本は弱者に冷たい社会になってきた。神を頼れる私たちは、自分のことより弱い立場の人々を優先できるようになりたい。 |
2005年8月21日(日) 年間第21主日 マタイによる福音書16章13-20節
イエスは小さき者に目を留められる。 今朝のラジオで、アフガニスタンはイラクと同じく以前よりひどくなっていると報告があった。米軍が来る前は平和で長閑な農村であったのが、戦後、血なまぐさい地に変わり、診療所も閉鎖に追い込まれ、安心して暮らせなくなった、という。 このような報道を聞くと、大国のエゴに腹がたつ。その米国に追随して行く日本にも同様だ。米国や日本をメシア、即ち、救い主と信じるのは空恐ろしい。 イエスをメシアと信じる、いいかえれば、イエスをメシアとして忠実に仕えるとは、小さくされた人々と共にいる、ということだ。そのイエスがペテロを代表とする弟子たちを教会の土台としたことは、ペテロはじめ従う人々は小さくされた人たちに仕えることに他ならない。 イエスへの忠誠は、米国や日本のあり方にノーを言うことになる。 総選挙もイエスの目で注目して行こう。 |
2005年8月28日(日) 年間第22主日 マタイによる福音書16章21-27節
イエスへの信従は小さくさせられた人々と共にいること。 イエスの福音は、生ある者が等しく大切にされること。イエスは出会った貧しい者、病人、虐げられた人々を大切にした。あなたがたは幸いだ、と神の近さを身をもって証しした。その結果、体制から処刑された。 私たちは愛する者のためには命を捨てることもある。イエスとの出会いは、愛する者を拡げられた、出会う人々へ。すべての人が幸いになることが私たちの願いとなった。 その願いが実現されるよう、苦しみを喜んで負って行いきましょう。 |
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