ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年7月3日(日) 年間第14主日 マタイによる福音書11章25-30節
イエスは私たちに本当の平和を与えられた。 人はみな、軛につながれて生きている。いわゆる、生老病死というものだ。人はその軛を軽くしようと何かに縋る。なかでも、宗教だ。宗教側は人々の信仰心を巧みに操作し、いっそう、軛を重たいものにする場合がある。イエスは宗教だけでなく、政治・経済の社会構造からも重たい軛を負わされて、苦難に生きる人々の荷を軽くしよとされた。それは、自らも担うという形であった。病にある人と共に、貧しい人と共に、差別される人と共に最後は、刑死される人と共に生きられた。 私たちは、むしろ、自分の荷を軽くするために他者との関わりを少なくする。しかし、それが、いつのまにか、荷は加重されている。 イエスは共に負って行こうと私たちを招く、あなた方の荷は私が担いでいるからと。イエスに頼りながら、人と関わって行こう。 |
2005年7月10日(日) 年間第15主日 マタイによる福音書13章1-23節
イエスはすすんで荷を持ってくださる。 イエスが示された神様はおおらかな農夫だ。パレスチナ的農法かもしれないが、種を大雑把に蒔かれる。日本的農業から見れば無駄でもったいないと非難されるほどいい加減だ。後者では一粒も無駄のないように緻密に計画的に蒔く。ましてや、道端、石地、茨の中には蒔かない、蒔く前にはきれいに整地、耕す、草一つも残らないように。収穫にしても、手入れをかかさない、収穫量は手間に比例するからだ。 に比べ、神様である農夫は手間をかけない、むしろ、何処かしこと種を蒔きつづけ、実るにまかせている。或いは、実りを待ち続けている。 神様は私たちがイエスの軛に繋がるのを待ち続けている。 |
2005年7月17日(日) 年間第16主日 マタイによる福音書13章24-43節
神様は私たちに関わり続ける。 今日の農家の親方も途方もないバカだ。 毒麦も収穫まで刈り取るな、と農夫たちに命じている。ということは、ありえないはずの毒麦が良い麦に変わるのを待っているのだ。損を承知しているのだ。 神様はそこまで私たちに関わってくださる。 その有り難さに、私たちはイエスの軛に再度つながろう。 |
2005年7月24日(日) 年間第17主日 マタイによる福音書13章44-52節
神は毒麦を収穫まで育つにまかせられる。 広大な畑の中から宝を見つけ出すのは奇跡としか言えない。数多ある真珠の中から高価な真珠を見つけ出すのには優れた目利きの腕と、これまた縁に頼るほかない。 これほどまでに、神は私たちのなかにある宝を待ち続けられ、宝が地上に現れ、光輝くまで他のすべてに勝って関わられる、ひとり子をお与えになる程に。 私たちも他者の中にある宝を見つけよう。 |
2005年7月31日(日) 年間第18主日 マタイによる福音書14章13-21節
神様は私たちを宝物と呼ぶ。 神様は私たちを放って置かれない。弟子たちは自分らの食べ物を心配して、貧しい人々を解散させてくださいとイエスに言う。イエスはお前たちが分け合えと言う。イエスには貧しい人々を見過ごすことはできなかった。出来る限りのことをしよう、というのがイエスだった。後には、ご自身を与えることとなった。 自分を優先する私たちは、私たちを優先するイエスの後に従って行きたい。 |
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