ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
ラベンダー 小さな花穂 風に揺れ

―もとゐ―


 2005年6月5日(日)
 年間第10主日

 マタイによる福音書9章9-13節

9,9 〔そのとき、〕イエスは通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9,10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9,11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9,12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9,13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

 イエスは私たちの寄る辺なり。

 イエスはレビを「見る」。打ちひしがれ、何かにもがいているレビを「見て」心を痛められた。そして、声をかけた「私に従いなさい」と。

 他方、ファリサイ派の人たちはレビを売国奴、罪人として「見た」。また、イエスを罪人と交わる不信仰者として「見て」とがめた。彼らにはレビやイエスを非難する眼は有っても、受け入れる眼を持たなかった。何故だろう、彼らは評価される世界に生きていた、そこでは、点数をつけられるだけで受け容れられ、尊敬されることはないからだ。彼らは評価に値する振る舞いを強制されていたのだ。

 イエスの眼は神の愛に根ざしていた、 出会う一人一人の心に眼を向けられる慈しみの人だ。頼るべきものを持たないレビに自分を差し出されたのだ。

 昨年も自殺者が3万人を超えたと言う。イエスが寄る辺であることを伝えに行こう。
 
今週の一句
くちなしや 眩く光る 白い花

―もとゐ―


 2005年6月12日(日)
 年間第11主日

 マタイによる福音書9章36-10章8節

9,36 〔そのとき、イエスは、〕群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
9,37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9,38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
10,1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
10,2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10,3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
10.4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
10,5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
10,6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
10,7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
10,8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 イエスは眼を向けられる。

 先日、河川敷に住むホームレスの方のところを訪問した。すると、大学生ぐらいの若者から重量物を投げられたり、花火を落とされて、危うく怪我か命を失っていたかもしれなかったと訴えられた。このような、青少年によるホームレス襲撃事件は後を絶たない、それは、大人たちのホームレスへの見方が影響している。

 イエスの時代でも乞食同然の群衆に誰が眼を留められるのだろうか。取税人マタイを自己の正当性を誇るため見下げたファリサイ派の人々と同様に見るしかないでは。後者はそのために神を前者にとって遠い神にしてしまったのです。病人、貧しい者は神の罰を受け「呪われた者」だ、と。社会から神からも見放された群衆は途方に暮れていたでしょう。肉体的苦しみ、飢え、裸、孤独、の上に追い打ちをかける遠い神、生きる術を奪われた群衆は生ける屍と化していたでしょう。イエスの眼はその群衆に向けられる。イエスの心は強く動かされる。使徒を選び、派遣されるのは群衆に神の近さを伝えさせるためなのだ。

 私たち自身、イエスから眼を留められ、死から立ち上がらせていただいた。その喜びを伝えに行こう。
 
今週の一句
布袋葵 空のどこまで 背伸びかな

―もとゐ―


 2005年6月19日(日)
 年間第12主日

 マタイによる福音書10章26-33節

10,26 〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
10,27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
10,28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10.29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
10.30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
10.31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
10.32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
10.33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 イエスとの出会いと交わりは私たちを遣わされる。

 その派遣は私たちが人々との関わりの中に生きよとのイエスの配慮だ。特別な宣教をしろということではなく、病む人、苦しむ人と共にいよう、ということだ。けれど、それが簡単ではない、食べて行くにはこの世との関わりの方が大事だから。病む人よりまず自分、家族、親族、近所の方が優先だ。なかでも、この世の目、つまり、評判が一番怖い。結局、私たちは世間の顔色を見ながら生きているのだ。イエスの身内も同じだった。

 しかし、イエスとの出会いは相対的な世間に生きるのではなく絶対的な神のもとに生きることに気付かされたのではないか。とすれば、私たちと家族の関わりはこの世的ではなく神のもとでの関わりだと言える。つまり、新たな視点での関わりなのだ。

 私たちは神のもとでは兄弟姉妹だ。パートナーとして互いに助け合って行くのだ。食べることにおいても。この世を恐れるのではなく、もっと神に親しくなろう。
今週の一句
掘り起こす 鍬の先から 芋光る

―もとゐ―


 2005年6月26日(日)
 年間第13主日

 マタイによる福音書10章37-42節

10,37 〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10,38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10,39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
10,40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
10,41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
10,42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 イエスの宣教は「剣」だと言う。

 イエスは、当時、疎外されていた人々に神の近さを伝えた。貧しき者は幸いなりと、貧しい人々は「平和」をいただいた。ところが、その平和はある人々には「剣」となった。イエスの言動は眠っていた子を起こしてしまったからだ。後者は隠していたことを明らかにされたので、イエスを「剣」で打った。

 イエスの「平和」は対立と分裂をもたらす、親子、家族の間にも偽りの「平和」か真の「平和」かどちらかを巡って。

 わたしたちは、イエスから本物の「平和」を与えられた。親子、家族からは得られなかったこの「平和」をもっと多くの人々に伝えに行こう。


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