ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
伸びすぎし 筍悔し 蹴倒しぬ

―もとゐ―


 2005年5月1日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書17章1-11節

17,1 〔イエスはその時〕、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17,2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17,3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17,4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17,5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17,6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17,7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17,8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17,9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17,10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17,11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 イエスは私たちを再発見させてくださる。

 イエスは神のもとに帰るにあたって、弟子たちを神が守るように願った。

 それは、イエスと神が一つであるように、私たちが神とイエスと一つであるから。

 イエスによって神を知らされる前、私たちは孤児であった。どこから来てどこへ行くのか分からなかった。また、何をすべきかも知らなかった。刹那的に私利私欲に生きるのみだった。

 しかし、イエスによって神を示されたとき、目が開け、自分が根無し草ではなく、神から生命をいただき、使命を託された者であることを諭された。まさに、刹那的命がイエスにおける「永遠の命」へと転換された。

 私たちはこうして神―イエス−私という生命に与ることとなった。私たちはイエスと神から離れると、途端に、孤児となってしまう。イエスはそれを憂え、神が目を離さないようにと懇願されたのだ。

 私たちは再び朽ちた命へ戻るだろう。しかし、神は私たちを見捨てない、この大きな愛のなかで神からの使命を全うできるのだ。
今週の一句
なんじゃもんじゃ 新緑の街路 白変化

―もとゐ―


 2005年5月8日(日)
 主の昇天

 マタイによる福音書28章16-20節

28,16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28,17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28,18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28,19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28,20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエスは私たちに永遠の命を賜う。

 私たちの生命が「永遠の命」に変わるのは、私たちの生をイエスにおいて見ることから始まる。ここにおいて私たちは神からこの世に派遣される者となる。

 神はすべての人を弟子にしなさいと私たちを宣教に遣わされる。それは、単に、教会の信者を増やせと言っているのではない。宣教には、「新しい信者を他の人の必要に敏感にさせること、彼らの目と心を開いて不正、苦しみ、圧政、挫折してしまった人の苦境を認めることができるようにさせることを含んでいる。」※@

 私たちはイエスにおいてこれらの恵みをいただいた。もちろん、未だ十分には用いていないけれど、活かすように招かれている。神はいつも共にいられるからだ。

 今の政治経済は弱い人々、貧しい人々をどんどん置き去りにして行く、その中で、私たちが彼らと連帯して行くことはイエスをすべての権威を与えられたものと信じ、弟子となること、即ち、永遠の命へと変わることなのだ。

※@『宣教のパラダイム転換上』p.144 デイヴィット・ボッシュ 新教出版社 1999年
 
今週の一句
訪ねれば 無人の屋敷に 夫婦雉

―もとゐ―


 2005年5月15日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書20章19-23節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 イエスは私たちを遣わされる。

 しかし、何度、わたしたちはその使命からはずれるだろう。時には、イエスを裏切って、閉じこもり利己的な生き方に埋没してします。座り込んで何もしようとしない私たちのところへイエスは現れる。イエスは声をかける、さあ、わたしといっしょに立ち上がろう、と。イエスはわたしたちが躓く度、何度も声をかけられる。そして、息、聖霊を与えられる。聖霊は私たちの力となる。

 さあ、私たちと共にいるイエスを伝えに行こう。
 
今週の一句
じっと覗く ちっちゃな蛙 ぴょこぴょこと

―もとゐ―


 2005年5月22日(日)
 三位一体の主日

 ヨハネによる福音書3章16-18節

3,16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3,17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3,18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 神はいつも私たちに生命の息を吹きかける。

 神はイエスをとおしてこの世界を、この私たちを愛される。この宣言に私たちはどの
ように応えようか。
 
 わたしたちは毎度この宣言に自己を見出し、立ち上がれる。この喜びを伝えたい。

 神があなたを愛していると、それには、イエスのように仕える者になることが大事だ。

 聖霊よ、わたしたちにその力を!
今週の一句
矢車草 緑の中を 引き締める

―もとゐ―


 2005年5月29日(日)
 キリストの聖体

 ヨハネによる福音書6章51-58節

6,51 〔その時、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6,52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6,53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6,54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6,55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6,56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6,57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6,58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 神は世界を愛される。

 しかし、この世界は死に向かって行くようだ。まるで、世界があのJRのように転覆事故に向かっているかのようだ。国家も会社も個人も何物かに駆られ暴走しているのじゃないか。

 イエスは私たちが生きるようにご自身を与えられる。私たちの生を預けるのは国家や会社や利己ではない。それらは、私たちを死に向かわせる。

 死への暴走をイエスに生かされた私たちがブレーキを踏むよう呼ばれている。人々を生かすように仕えたい。
 


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