ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年5月1日(日) 復活節第6主日 ヨハネによる福音書17章1-11節
イエスは私たちを再発見させてくださる。 イエスは神のもとに帰るにあたって、弟子たちを神が守るように願った。 それは、イエスと神が一つであるように、私たちが神とイエスと一つであるから。 イエスによって神を知らされる前、私たちは孤児であった。どこから来てどこへ行くのか分からなかった。また、何をすべきかも知らなかった。刹那的に私利私欲に生きるのみだった。 しかし、イエスによって神を示されたとき、目が開け、自分が根無し草ではなく、神から生命をいただき、使命を託された者であることを諭された。まさに、刹那的命がイエスにおける「永遠の命」へと転換された。 私たちはこうして神―イエス−私という生命に与ることとなった。私たちはイエスと神から離れると、途端に、孤児となってしまう。イエスはそれを憂え、神が目を離さないようにと懇願されたのだ。 私たちは再び朽ちた命へ戻るだろう。しかし、神は私たちを見捨てない、この大きな愛のなかで神からの使命を全うできるのだ。 |
2005年5月8日(日) 主の昇天 マタイによる福音書28章16-20節
イエスは私たちに永遠の命を賜う。 私たちの生命が「永遠の命」に変わるのは、私たちの生をイエスにおいて見ることから始まる。ここにおいて私たちは神からこの世に派遣される者となる。 神はすべての人を弟子にしなさいと私たちを宣教に遣わされる。それは、単に、教会の信者を増やせと言っているのではない。宣教には、「新しい信者を他の人の必要に敏感にさせること、彼らの目と心を開いて不正、苦しみ、圧政、挫折してしまった人の苦境を認めることができるようにさせることを含んでいる。」※@ 私たちはイエスにおいてこれらの恵みをいただいた。もちろん、未だ十分には用いていないけれど、活かすように招かれている。神はいつも共にいられるからだ。 今の政治経済は弱い人々、貧しい人々をどんどん置き去りにして行く、その中で、私たちが彼らと連帯して行くことはイエスをすべての権威を与えられたものと信じ、弟子となること、即ち、永遠の命へと変わることなのだ。 ※@『宣教のパラダイム転換上』p.144 デイヴィット・ボッシュ 新教出版社 1999年 |
2005年5月15日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書20章19-23節
イエスは私たちを遣わされる。 しかし、何度、わたしたちはその使命からはずれるだろう。時には、イエスを裏切って、閉じこもり利己的な生き方に埋没してします。座り込んで何もしようとしない私たちのところへイエスは現れる。イエスは声をかける、さあ、わたしといっしょに立ち上がろう、と。イエスはわたしたちが躓く度、何度も声をかけられる。そして、息、聖霊を与えられる。聖霊は私たちの力となる。 さあ、私たちと共にいるイエスを伝えに行こう。 |
2005年5月22日(日) 三位一体の主日 ヨハネによる福音書3章16-18節
神はいつも私たちに生命の息を吹きかける。 神はイエスをとおしてこの世界を、この私たちを愛される。この宣言に私たちはどの ように応えようか。 わたしたちは毎度この宣言に自己を見出し、立ち上がれる。この喜びを伝えたい。 神があなたを愛していると、それには、イエスのように仕える者になることが大事だ。 聖霊よ、わたしたちにその力を! |
2005年5月29日(日) キリストの聖体 ヨハネによる福音書6章51-58節
神は世界を愛される。 しかし、この世界は死に向かって行くようだ。まるで、世界があのJRのように転覆事故に向かっているかのようだ。国家も会社も個人も何物かに駆られ暴走しているのじゃないか。 イエスは私たちが生きるようにご自身を与えられる。私たちの生を預けるのは国家や会社や利己ではない。それらは、私たちを死に向かわせる。 死への暴走をイエスに生かされた私たちがブレーキを踏むよう呼ばれている。人々を生かすように仕えたい。 |
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