ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年4月3日(日) 復活節第2主日 ヨハネによる福音書20章19-31節
手袋は先に行っておられる。 手袋を失った弟子たちは茫然自失となった。その責めは自分たちにあったからだ。自分たちさへ裏切らなければ、手袋は殺されなかったのに、と。結局、彼らはまた闇に戻ってしまったのだ。 しかし、そんな闇に閉ざされた彼らの上に一条の光が射した。手袋の温もりが甦ってきた。生きていた間、手袋は人々を闇から導き出すために徹底的に仕えた、その暖かい温もりだ。 彼らは我に帰った。あの温もりを絶やさないようにしよう、まだ、知らず暗闇に彷徨っている人々に告げよう、きっと、今も、手袋は我々を温め続けているに違いない。先を進み、立ち上がるのを待っているのだ。 生きている手袋との出会いはいっしょに進むことに起きる。 さあ、私たちも進もう、光のなかへ。 |
2005年4月10日(日) 復活節第3主日 ルカによる福音書24章13-35節
温もりを求めているところに手袋はいる。 教皇ヨハネ・パウロ二世は亡くなった。天寿を全うした、幸いな死である。 手袋の死は非業の死だった。テロリストとして権力から抹殺された。女弟子をのぞけば、誰も彼の死を悼まなかった。原始キリスト教団はその死を懸命に考えた。ルカのように救済史的な意味づけもその一つだった。しかし、その非業の死は薄められた。非業ではなく神の意志だ、と言って。 かたや、現教皇には多くの人々が賛辞し、別れを惜しんでいる。世界の指導者たちが参列して盛大な葬儀が営まれた。 見誤ってはならない、キリスト教信仰の根源は手袋の非業の死にあることを。教皇を惜しむ声の裏を見つめよう。大国の陰に、多くの温もりを失っている人々のことを忘れてはならない。 |
2005年4月17日(日) 復活節第4主日 ヨハネによる福音書10章1-10節
手袋は華麗なる祭典の場にはいない。 いよいよ、憲法改正に着手した。聞くところによると権力者が暴走しないように監視する憲法をむしろ国民を監視するものに改悪することを目論んでいると言う。 宗教にも同じ面がある。宗教団体に都合の良いように教義を改悪することだ。ユダヤ教の指導者たちが手袋を罪人として処刑したように。この世には自分だけが正しいと主張する者は多い。宗教家から始まり、男まで。では、私たちはどの声に耳を傾けるべきか。ヨハネ福音記者は手袋を「門」、また、「良き羊飼い」だと言う。その他多くの象徴で手袋を証ししている。即ち、ヨハネは手袋が真理の「門」、死から生命への「門」、闇から光りへの「門」だと言っている。何故だろうか、他にも多くの「門」があったはずなのに。 それは、自己主張ではなく、徹底した奉仕、ゆるすその生き方があったからではないか。 憲法改正も私利私欲のためではなく、小さくさせられた人々に仕えるものになるとき、それは真理への「門」になる。 |
2005年4月24日(日) 復活節第5主日 ヨハネによる福音書14章1-12節
イエスは門だ。 わたしたちはどこから来て、どこへ帰って行くのだろうか。この問いは、私は一体何か、私の価値とは、私の生の意味、目的は何かの質問にもなる。 ユダヤの人々、そして、弟子たちもイエスとは何者かと考えた。そして、その根拠のイエスはどこから来たのかを執拗に問うた。ヨハネは言う、イエスは神から派遣された方だ、なぜなら、彼は神のもとから来られ、神のもとへ帰って行くからだ、と。 人々はヨハネの証に躓いた。というのは、ここにいるイエスはナザレの出身でヨゼフの子に違いないからだ。 わたしは、とらから生まれたももでしかない。限られた能力と才能だけで生きる者でしかない。しかし、目を転じて、私が神のもとから来たものであり、神のもとへ帰る者だと示されたとき、わたしは価値を見出し、神から派遣され、神の使命を生きる者として創られたことを発見できる。 イエスは私が何者であるかを発見できる、門であり、道であり、命であり、真理なのだ。 私たちは、このイエスをもっともっと伝えたい。 |
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