ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年2月6日(日) 年間第5主日 マタイによる福音書5章13-16節
手袋は神からの幸いを届けます。 新潟中越地震の被災地には無情にも大雪が降り続いている。 イラクでは選挙後、テロ続発、混乱は増している。それらの人々が望むのは理解と応援ではないか。 手袋は貰った人々に言った。「地の塩、世の光になれ。」つまり、社会へ働きかけることを勧めている。手袋はしまい込まれて、使われなければ意味がない、使われて、汚れて初めて生きられる。しかも、手袋は一枚きりではない、どんどん、届けられる。なんと、無償で、使わなければタンスの肥やしになるだけ。 雪かき、雪おろしに、戦争の終結と平和の回復に、人々の和解に、…惜しみなく手袋を使おう。 |
2005年2月13日(日) 四旬節第1主日 マタイによる福音書4章1-11節
手袋を与えられた人は、その温もりを伝えるよう呼ばれています。 私たちにとって最強の誘惑は何だろう。それは「一番になること」つまり、神になること、人の上に立つことではないだろうか。勉強、労働、趣味、雑学、ともかく、何でもいいから一つでも人に自慢できるものを持ちたい、というのがそれだ。金力、権力、腕力において人より優れたものをと誰もが願うのだ。 なぜなら、社会、世間はそこにしか自分の価値を見いだしてくれないからだ。そして、私たちはねたみとひがみの無間地獄に落ちるのだ。 しかし、手袋は神に出会った。手袋はおおいに喜んだ。というのは、神の懐に迎えられたからだ。神はこんなにも小さな自分に命を与え、食物を与え、交わりを与えてくださる。手袋は生かされていることをいたく喜び、感謝している。そして、自分も人々の生の喜びに与りたいと願うのであった。 人の上に立つことより、人と喜び合う道を歩みましょう。 |
2005年2月20日(日) 四旬節第2主日 マタイによる福音書17章1-9節
手袋は喜んでいた、今、生かされていることに。 手袋は喜びを伝えた。病んでいる人、貧しい人、孤独な人、圧迫されている人に。しかし、人の上に立ちたい者たちからは邪魔された。なぜなら、彼らは人と同列に見られたくなかったからだ。人との違いに優劣をつけているからだ。 手袋は悲しかった、なぜ、人々はそんなにも差をつけたがるのだろうか。ねたみとひがみの無間地獄に生きて何がいいのだろうかと不思議がった。 手袋を伝える人たちもそうだ。自分の生かされている喜びを伝えるはずが、いつしか、自分を伝えること、つまり、伝える自分が偉いものになってしまった。「ここにいるのはすばらしいことです」と。 人の上に立ちたいとの思いはその無間地獄の中で、互いを傷つけ合う。手袋の受難はその渦の中に引き込まれたと言っていい。その渦から脱するには神の声を聴き続けること、自分の声にではなく。 弱さに負けそうなとき、「これに聴」きましょう。 |
2005年2月27日(日) 四旬節第3主日 ヨハネによる福音書4章5-42節
人々は勘違いしている。一番になることが幸せだ、と。 手袋は出会う人々に幸いを運んでくる。 女性の人生は何か生きずらかった。来る日も来る日も重労働である水汲みをすることは彼女には非常に大きな苦痛であった。水汲みさえなければ、もっと私の人生は楽になるのにと思っていた。女性は苛立ちながら今日も水汲みに来た。 手袋は重々しい足取りの彼女を見かけて声をかけた。彼女はただでさえ鬱陶しいのにと、関わらないようにした。しかし、めげずに、手袋は話しかけた、彼女の鬱陶しさを晴らせたらと。そして、ついに、彼女は叫んだ、水汲みに来なくてもいいようにしてください、と。 ところが、手袋はなおも話しかけた。というのは、女性の顔が晴れなかったからだ。彼女はあれほど望んでいた水汲みの重労働から解放されるのに、なぜか、体の奥にはまだ大きな刺が残っているのだった。 彼女は気がついた。私の人生がこんなにも生きぐるしいのは水汲みのせいではなかったのだ。私の願いは生きづらいと呻吟している私を、ありのままのこの私を誰かに受け止めてほしかった、甘えたかったのだ。しかし、周りの誰もそうではなかった。口を開けば、おまえが悪い、努力しろ、我慢しろ、と突き放すばかりだった。 ところが、この手袋はちがった。私をありのまま、まるごと包んでくれたのだ。 彼女は軽くなった。そして、人々のところへ飛んでいった。手袋に暖まりながら。 勘違いに気づくよう手袋と対話しよう。 |
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