ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2005年1月1日(土) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16-21節
小さき者と共に神はおられる。 また、大災害が起きた。8万とも言われる死者を出した。多くは南アジアの貧しい民衆たちだ。こんな悲劇を前に、神は共におられる、とどうして言えようか。う…、黙るしかない。 イエスの十字架、アウシュビッツ、ヒロシマ、9・11、神は黙していた。もちろん、人間の都合に応えられる神ではない。しかし、悲しむ者の叫びは聞いてくれるはずだ。う…、 ここでも沈黙。私たちに求めているのかもしれない。マリアのように心にとめ深くみつめよう。世界が平穏に平和になるように。 |
2005年1月2日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1-12節
神の沈黙。 神は人の願いを適えられないのか。ヘロデや占星術の学者たちの望みは適えられなかった。ヘロデは神にではなく自分の権力に頼った。学者たちもその経験に頼ったとき、見失った。星は彼らの思わぬところに導いた。 イエスは派遣されたが、十字架で殺された。 神は人の望みではなくご自身の思いに従われる。神は人を愛されるが故に黙される。私たちが動くために。 |
2005年1月9日(日) 主の洗礼 マタイによる福音書3章13-17節
私たちに「起きて」と呼びかける神。 大津波の被害のニュースは想像を絶する、死者15万人、家を失った人100万人と言われ、今後の感染症も懸念される。イラクでは総選挙を控え治安悪化、等。 新年早々、ニュースは暗くて重い、幸い、大規模な援助活動が始まり、一条の光明が射している。 大規模な災害だからではなく、小さな悲しみ、不幸はいたるところで起きている。イエスの神の国宣教は、それらに手を拱いているのではなく、こんな小さな私もともかく、出かけて行こう、手を伸ばそう、ということではないか。 だからこそ、イエスの洗礼はその出立前に、神から力を頂こう、神から後押しして頂こうとの徴なのだ。私たちもミサでのイエスとの出会いによって後押ししてもらおう。 |
2005年1月16日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章29-34節
神と歩む一歩の洗礼。 ヨハネ福音記者はイエスを神の子羊と呼んだ。イエスの十字架の死を罪を贖う生贄の子羊と見たのだろう。それほど、当時のユダヤ教では罪の奴隷からの脱却、新生が渇望されていたのだろう。そして、他のファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派ではなくイエスにおいて与えられたという信仰なのだ。 しかし、神の愛がイエスの血によって私たち人間に与えられるというのはちょっと血腥い気がする。無償の愛と呼ぶには代価が高すぎるのではないか。まあ、でも、ヨハネさんは2000年前のユダヤ教のなかで一生懸命考えたのであろう。 さて、現代的には、イエスを何と呼んだらいいのだろうか。人間の罪はますます大きな問題になっている。罪を贖う方というよりも、罪に苦しむ私たち共にいてくださる方と言えるのではないか。沈黙する神はインマヌエル「神、我らと共にいられる」方なのではないか。だから、イエスは「手袋」なのだ、寒い時、冷たい時、いっしょにいてくれるから。 私たちも無力だけれど、「共に」いさせてもらえるのではないでしょうか。 |
2005年1月23日(日) 年間第3主日 マタイによる福音書4章12-23節
イエスは手袋。 手袋は包み込む。かじかんだ手を温め、癒し回復させる。表面の傷つきを防ぎ、汚れをつかむ。 手袋は、それが拡がるように、人に目を留め、声をかける。手袋を配達してください、と。 行き詰まりを感じていた人、希望を失った人、病む人、疎外されている人は手袋に包まれて、メタノイア、新たに歩みだす。この温もりを伝えたい、と。 私たちはすでにいただいた手袋を持たない人々にプレゼントしよう。 |
2005年1月30日(日) 年間第4主日 マタイによる福音書5章1-12節
手袋は人々のなかに進む。 世界は悲しむ人々で溢れかえっていた。病む人、飢え渇く人、宿のない人、戦争や災害に傷つく人、暴力を振るわれる人、迫害される人、孤独な人、…。 手袋は彼・彼女らに声をかけ、目を留めた。わたしをあなたたちのそばにいさせてください、わたしには力は何もありませんが、必要な時、ご利用ください、と。 手袋を身につけた人は温まるのを感じただろう、傷の癒えて行くのに気付いたろう、 寂しい人は勇気をもらったろう。 神様の幸いはこんな何気ない心遣いがもたらしてくれるのだ。 |
|