ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
大荒れの 野宿して居る 大晦日

―もとゐ―


 2005年1月1日(土)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 小さき者と共に神はおられる。

 また、大災害が起きた。8万とも言われる死者を出した。多くは南アジアの貧しい民衆たちだ。こんな悲劇を前に、神は共におられる、とどうして言えようか。う…、黙るしかない。

 イエスの十字架、アウシュビッツ、ヒロシマ、9・11、神は黙していた。もちろん、人間の都合に応えられる神ではない。しかし、悲しむ者の叫びは聞いてくれるはずだ。う…、

 ここでも沈黙。私たちに求めているのかもしれない。マリアのように心にとめ深くみつめよう。世界が平穏に平和になるように。

今週の一句
みぞれ雪 両手足取られ 大晦日

―もとゐ―


 2005年1月2日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 神の沈黙。

 神は人の願いを適えられないのか。ヘロデや占星術の学者たちの望みは適えられなかった。ヘロデは神にではなく自分の権力に頼った。学者たちもその経験に頼ったとき、見失った。星は彼らの思わぬところに導いた。

 イエスは派遣されたが、十字架で殺された。

 神は人の望みではなくご自身の思いに従われる。神は人を愛されるが故に黙される。私たちが動くために。


今週の一句
元旦や 祈り貴し 震災地

―もとゐ―


 2005年1月9日(日)
 主の洗礼

 マタイによる福音書3章13-17節

3,13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3,14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか
3,15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3,16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3,17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 私たちに「起きて」と呼びかける神。

 大津波の被害のニュースは想像を絶する、死者15万人、家を失った人100万人と言われ、今後の感染症も懸念される。イラクでは総選挙を控え治安悪化、等。

 新年早々、ニュースは暗くて重い、幸い、大規模な援助活動が始まり、一条の光明が射している。

 大規模な災害だからではなく、小さな悲しみ、不幸はいたるところで起きている。イエスの神の国宣教は、それらに手を拱いているのではなく、こんな小さな私もともかく、出かけて行こう、手を伸ばそう、ということではないか。

 だからこそ、イエスの洗礼はその出立前に、神から力を頂こう、神から後押しして頂こうとの徴なのだ。私たちもミサでのイエスとの出会いによって後押ししてもらおう。

今週の一句
朝の駅 学生群れて センター試験

―もとゐ―


 2005年1月16日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章29-34節

1,29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1,30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1,31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1,32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1,33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1,34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 神と歩む一歩の洗礼。

 ヨハネ福音記者はイエスを神の子羊と呼んだ。イエスの十字架の死を罪を贖う生贄の子羊と見たのだろう。それほど、当時のユダヤ教では罪の奴隷からの脱却、新生が渇望されていたのだろう。そして、他のファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派ではなくイエスにおいて与えられたという信仰なのだ。

 しかし、神の愛がイエスの血によって私たち人間に与えられるというのはちょっと血腥い気がする。無償の愛と呼ぶには代価が高すぎるのではないか。まあ、でも、ヨハネさんは2000年前のユダヤ教のなかで一生懸命考えたのであろう。

 さて、現代的には、イエスを何と呼んだらいいのだろうか。人間の罪はますます大きな問題になっている。罪を贖う方というよりも、罪に苦しむ私たち共にいてくださる方と言えるのではないか。沈黙する神はインマヌエル「神、我らと共にいられる」方なのではないか。だから、イエスは「手袋」なのだ、寒い時、冷たい時、いっしょにいてくれるから。

 私たちも無力だけれど、「共に」いさせてもらえるのではないでしょうか。

今週の一句
大寒や 土掘り起こし 球根植え

―もとゐ―


 2005年1月23日(日)
 年間第3主日

 マタイによる福音書4章12-23節

4,12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4,13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4,14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4,15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4,16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4,17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
4,18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4,19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4,20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4,21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4,22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
4,23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 イエスは手袋。

 手袋は包み込む。かじかんだ手を温め、癒し回復させる。表面の傷つきを防ぎ、汚れをつかむ。

 手袋は、それが拡がるように、人に目を留め、声をかける。手袋を配達してください、と。

 行き詰まりを感じていた人、希望を失った人、病む人、疎外されている人は手袋に包まれて、メタノイア、新たに歩みだす。この温もりを伝えたい、と。

 私たちはすでにいただいた手袋を持たない人々にプレゼントしよう。

今週の一句
霜の原 染めつつ昇る 朝陽かな

―もとゐ―


 2005年1月30日(日)
 年間第4主日

 マタイによる福音書5章1-12節

5,1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5,2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5,3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5,5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5,6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5,7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5,8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5,9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5,10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5,12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 手袋は人々のなかに進む。

 世界は悲しむ人々で溢れかえっていた。病む人、飢え渇く人、宿のない人、戦争や災害に傷つく人、暴力を振るわれる人、迫害される人、孤独な人、…。

 手袋は彼・彼女らに声をかけ、目を留めた。わたしをあなたたちのそばにいさせてください、わたしには力は何もありませんが、必要な時、ご利用ください、と。

 手袋を身につけた人は温まるのを感じただろう、傷の癒えて行くのに気付いたろう、

 寂しい人は勇気をもらったろう。

 神様の幸いはこんな何気ない心遣いがもたらしてくれるのだ。


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