ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2004年12月5日(日) 待降節第2主日 マタイによる福音書3章1-12節
今日を大切に、とイエスは呼びかける。 荒れ野の洗礼者ヨハネ、一介の修業者にすぎない彼の「回心せよ」の呼びかけは現代においてはどこで叫ばれているのだろうか。 イラクから、エイズ患者から、DVの被害者、地震災害からの避難民、死刑囚、ホームレスの方たち、障害者の人たちから、そして、身近な人たちからではないでしょうか。そう毎日出会う人々からの叫びなのだ。 わたしたちはやりきれなさに耳を塞ぎたくなる。そんなことにかまっておられない、それより、衣食住の方が先決だ、と。 日本では何でも自己責任で片づけられる。失業も借金苦も。だから、他人のことまでかまっておられない。米国でもオーナーシップと言い、ますます富者が栄え、貧者はますます落ちて行く社会になるそうだ。ということは、テロも増えるということ。 洗礼者ヨハネの叫びはそれを預言した。「回心」それは自己中心から神と隣人に心を向けよの呼びかけ。生き残りの競争ではなく、互いに、助け合おう、大切にしよう、と。 今日、出会う人の痛みに、気づき、人を誘って手を出し合おう。 |
2004年12月12日(日) 待降節第3主日 マタイによる福音書11章2-11節
荒れ野のヨハネ預言者を見なさいと、招かれている。 イエスの到来は神の国のはじまり。洗礼者ヨハネは弟子を遣わし、確かめさせた。イエスは弟子たちに見て聞いたことを報告しなさい、と言われた。 しかし、人々はその現実から見取り、読み取る人は少ない。それが小さい、平凡、ありきたり、惨めであればあるほど。極め付きはイエスの十字架死だ。そして、クリスマスはその序幕にすぎない。 私たちキリスト者はむしろイエスのその刑死に神の国のはじまりを見るよう、挑戦を受けている。 日々の人々との関わりを続けて行くなかで、きっと、十字架を体験するだろう、そこに、神を見るようにと。 |
2004年12月19日(日) 待降節第4主日 マタイによる福音書1章18-24節
イエスのうちに神を見いだすよう、呼ばれています。 イエスの十字架の受難に神の愛を見るように、イエスの誕生秘話にもそれを読み取れます。神の偉大な力を見るよりも、弱い立場の二人に働く、神の優しを見いだせます。宗教的社会的には後ろ指さされる妻を支えようとする夫、その二人を理解する人の誰もいない、貧しく孤立無援な二人、しかし、神はその二人を守り、祝福を与えるのです。 私たちも同じです。この弱い貧しい私を神は受け入れていてくださいます。 ヨセフとマリアの話しは人生に苦難を受けている人々を勇気づけます。 わたしたちも共に苦難にある人々と歩むよう、招かれているのです。 |
2004年12月24日(金) 主の降誕 夜半のミサ ルカによる2章1-14節
小さくさせられた者に目を留められる神のもとに行こう。 イラクやパレスティナでは憎悪の連鎖が後を絶たない。国内では凶悪犯罪が多発している。また、災害の被災者らの生活再建は目途が立たない。 このようななか、小さくされた人々はますます小さくされて行く。戦争や暴力、災害の被害者はいつも彼・彼女らだ。 ローマ皇帝は人々を強制的に移動させる。日本に出稼ぎに来るフィリピンや東欧の女性たち、自国の貧しさ故に、外国へ移住させられる。職を失い、住むところを奪われた人々はホームレスと呼ばれ、仮の宿の公園からも追い払われる。 旅をさせられるヨゼフとマリアはそれらの一人だ。旅先の家畜小屋で生まれたイエスも同様。そこに、神の目が留まる。神がおられる。 私たちはどこにいるのだろう。彼・彼女を追いやる側にいるのじゃないだろうか。 この呼びかけに、私たちは踵を返し、小さくさせられた人々と共にあろう。 |
2004年12月26日(日) 聖家族の祝日 マタイによる福音書2章13-15、19-23節
イエスのもとに行こうと呼びかけられている。 戦火を逃れ難民となった人々、異国で強制労働させられている人々、仮設住宅の人々、DVで居場所が無くなった人たち、公園さへからも追い出される人々、彼・彼女たちの未来はあるのだろうか。政治家や官僚には自己保身で当てにならないし、私たちは暮らしで目一杯、無関心を決め込む。結局、彼・彼女らは外に捨て置かれ、自己責任として片付けられる。 そんな人々に神は目を留め導かれる。「起きなさい」と声をかけられる。彼・彼女らの一人ヨゼフはこの方の声に従い、家族の命を賭ける。 神は歴史を導かれる方、歴史は確かに権力者たちが動かす、しかし、その核心には小さくされた人々を守り続ける方がおられることをヨゼフはイスラエルの信仰から学んでいた。 私たちはヨゼフらからこの神へ耳を傾けることを教えられる。目に見える権力ではなく、世界を愛し続ける方の声に。 |
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