ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2004年11月7日(日) 年間第32主日 ルカによる福音書20章27-38節
ザアカイはイエスに手を伸ばし、繋がれました。 復活とはサドカイ派が否定するようにあの世で、私たちがどのようになるかではありません。人を生かす神との出会いによって人は生きられる、ということなのです。 ザアカイはイエスに繋がり生きることができた、復活したのです。それまでの彼は死に体だっからです。同じく、生きる意味を失っていた徴税人は祈りにおいて神と繋がり生き直すことができたのです。らい病者もイエスに触れられて新たに生きることとなったのです。 生きる願いを持った者に神、イエスは近づかれ、生きられるように後押しされるです。それはまた、ファリサイ派のように自己を肯定し現状維持、今の生に疑問を持たない者はイエスや神に近づかないのです。 今、私たちの周りには、戦争や災害、貧困や病気、などによって生への希望を持てなくなった人々が多くいます。イエスによって生への熱意を与えられた私たちはその方々が復活されるようお手伝いしましょう。 |
2004年11月14日(日) 年間第33主日 ルカによる福音書21章5-19節
私たちは神において生かされています。 今、イラクのファルージャでは米軍の総攻撃がなされ、一般市民、特に、女性、子どもの多くが犠牲になっていると言われています。まさに、地獄絵図の様相を表しています。 渦中の人々はどんな思いで過ごしていることでしょう。今だけではなく、イラク戦争後、混乱と殺戮にある人々の思いは察してあまります。 同様に、ユダヤ戦争にあったユダヤ教徒もそうだったでしょう。また、憎悪と迫害にあったキリスト教徒もそうだったでしょう。終末、主キリストが来臨し、裁きがくだされることを待ち焦がれていたことでしょう。 イラクの人々は米国やその同盟国に神の鉄槌が下されるよう祈り求めているでしょう。 私たちがそれを看過していては、その裁きを受けることでしょう。裁きではなく、平和が到来するように出来ることから始めましょう。 |
2004年11月21日(日) 王たるキリスト ルカによる福音書23章35-43節
裁き主キリストは私たちに愛と平和に生きるよう呼びかけています。 裁き主キリストはあの厳めしくごつい閻魔大王ではありません。盗賊といっしょに十字架にかけられ、罵倒され、絶命する弱々しいイエスです。自ら十字架上で苦しみながらも、一人の盗賊の願いを聞かれる方です。 この盗賊はあの放蕩息子のように自己の過ちに気づき父に身を任せたように、イエスに任せたのでした。 イエスは父と同じように無言のうちに彼を抱きかかえたのです。なぜなら、盗賊を罰する方ではなく、共にいてくださる方だからです。 私たちが自分の過ちに気づきイエスのもとに帰るなら、きっと、イエスは喜んで迎えてくれる裁き主なのです。 |
2004年11月28日(日) 待降節第1主日 ルカによる福音書23章35-43節
世の終わりはイエスを信じて任せよう。 世の終わり、個人の死はいつくるかわからないから備えておきなさい。この言葉は、ややもすれば、私たちの人生は来世の祝福か災いを得るためだけのものと勘違いしてしまいます。その典型が、1タラント預けられた僕は主人の怒りを免れるために一文もなくさないようにとじっと隠し持っていた、譬えに示されています。 イエスはこのような人生を送るようにと私たちに勧めているのでしょうか。そうではありません。むしろ、備える。目を覚ましなさい、と言うことは、その日を一期一会として過ごしなさい、と招いているのです。 明日があるからではなく、今日しかないから、出会うすべてに大切に応えましょう、と言っているのです。イエスはその日出会う人、一人一人の生命を豊かにしようとしたのです。飢えた人にはパンを、病める人には癒しを、孤独なザアカイには共にいることを。 イエスと共に私たちも、「今日」を豊かな日にしましょう。 |
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