ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
コスモスの 花びらちぎり 好き嫌い

―もとゐ―


 2004年10月3日(日)
 年間第27主日

 ルカによる福音書17章5-10節

17,5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17,6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17,7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17,8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17,9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17,10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 イエスとのネットワークは私たちをラザロに繋ぎます。

 教会でのある小さな出来事。祈りの輪が広がって行く。一人一人の祈りは小さい、からし種のようだ。しかし、祈りの鎖は大きな力になる。

 祈りは人を繋ぎ、他者との出会いは自分を変えて行く。引っ込んでいると、大魚を逃がしてしまう。鎖に繋がって、初めて見えてくる。その経験は、他者へと拡がって行く。

 イエスの手は私をも通して四方へと伸びて行くのである。

今週の一句
ドングリを 追って山里は 人険し

―もとゐ―


 2004年10月10日(日)
 年間第28主日

 ルカによる福音書17章11-19節

17,11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17,12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17,13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17,14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17,15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17,16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17.17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17,18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17,19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 祈りは人と人とを繋ぐ鎖です。

 今日の話しはちと頭が痛いですね。誰もが身に覚えのあることです。人は現金なもので頼むときは必死で、何でもしますからとか、お返しは十倍にしますとか、あるいは、一生懸命頑ばりますから、とか言います。

 ところが、どっこい、願いが聞かれると、何のことはない、その後は音沙汰なし、ひどいのになると、顔だしたときはまた頼みごと。断ると、今度は罵詈雑言、なにをかいわんやである。

 神様もイエス様もそんな人間に愛想をつかしているでしょう。ところが、イエスは辛抱強い。放蕩息子の父親だ。何度、裏切られても人と繋がるのである。

 今日のイエスはそんな私たちを見越して、皮肉ったのです。戻って来たのは一人か、と。イエスの皮肉に私たちは苦笑いして、今度こそ、イエスにお返ししようと心に秘めましょう。

今週の一句
嵐行き 大輪のダリア 置き土産

―もとゐ―


 2004年10月17日(日)
 年間第29主日

 ルカによる福音書18章1-8節

18,1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18,2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18,3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
184 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18,5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18,6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18,7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18,8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 祈りは戸を閉めて密かに行われる。

 イエスは人が自己を神の前で正しいものとすることは不可能であることを知っていました。なぜなら、時の宗教家たちは自分たちを正しい者と言いながら、ライ病者をはじめ弱い立場の人々と関わらなかったことを身をもって知っていたからです。

 それ故、私たちの神への願いは、これこれのことをしたから、これこれお返ししてください、とシツコク祈ることではなく、こんな私をおゆるしくださいと嘆願することなのではないでしょうか。

 イエスは長い祈りやくどい祈りを自己義化として批判しました。むしろ、神の国を求めている時すべては与えられると確信していました。

 私たちが人への愛に無力を感じて、ただただ、神のゆるしだけを願うとき、神は私たちをきっち憐れんでくださるのです。

今週の一句
台風の 通過をじっと 堪えけり

―もとゐ―


 2004年10月24日(日)
 年間第30主日

 ルカによる福音書18章9-14節

18,9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18,10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18,11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18,12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18,13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18,14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 やもめは魂を尽くして嘆願しました。

 なぜなら、彼女を苦難から助け出す方は神以外にいなかったからです。

 ファリサイ派の人は自己を頼みました。自他共に優れた人だと認めているからです。

 従って、彼には神の助けは不要なのです。むしろ、神に自分を褒めろと要求しているのです。

 この世では、そういう生き方は勝者とよばれます。他方、徴税人はやもめと同じく魂をふりしぼって神の憐れみを求めています。なぜなら、誰も彼を認めてくれないからです。この世では彼のような人を敗者とよびます。しかし、彼は祈りました。いと小さき者をかえりみられる神様は必ず私をも目を留めてくださると信じていたからです。

 信仰は人のよって立つところです。生きているのか生かされているのか。ファリサイ派の人は生きていました。自己に立っていたのです。彼の祈りは更に立ち上がるためだったのです。徴税人は立てませんでした、立たせてもらうしかなかったのです。

 イエスの十字架の道も祈りだったのです。自分の立てる場所、それは神だけだったのです。神の力を願うしかその道を歩めなっかたのです。

 私たちの祈りが自分の立つ場を明らかにするものでありますように。

今週の一句
月さやか 避難人らも 眺めらし

―もとゐ―


 2004年10月31日(日)
 年間第31主日

 ルカによる福音書19章1-10節

19,1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19,2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19,3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19,4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19,5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19,6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19,7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19,8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19,9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19,10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 祈りにおいて徴税人は神に身を任せました。

 徴税人は苦しんでいました。日雇労働者の貧しい家庭で生まれ、学歴も才能も、つてもない自分が生きて行くには、人の嫌がる、売国奴、守銭奴と言われる仕事しか。それさえも、雇われたのは幸運だった、その仕事しかなかったのだ。にもかかわらず、同朋のユダヤ人たちは「罪人・穢れた者」と呼び、誰も自分と関わってくれなかった。

 彼らを見返してやろうと一生懸命働いた、あくどい事もやった、やもめらを散々泣かしてきた。そのせいか、人もうらやむひと財産を作った。町の人らは金目当てに頭を下げるが、腹の中ではバカにしているのだ。一体、自分はどうしたら人生の意味を見つけられるのか、このまま、誰からも嫌われ、邪魔者扱いされて過ごすしかないのか。

 彼はきっかけをつかもうとイエスの近くに寄りました。イエスは彼を見とめて声をかけました。徴税人はこれからの人生を彼に任せました。

 私たちも自身がまた友が、行き詰まったり、失ったり、誤ったときいっしょにイエスの下へ駆けて行きましょう。



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