ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「雷や 渇き大地に 吸い込まれ」

―もとゐ―


 2004年7月4日() 年間第14主日

 ルカによる福音書10章1〜9節


10:01その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
10:02そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
10:03行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
10:04財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。
10:05どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
10:06平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
10:07その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
10:08どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、
10:09その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

 イエスは私たちを宣教へ遣わします。
 イエスの72人の派遣は、12人の使徒に代表されるようにイスラエル内への宣教ではな く、それを超えた全世界への宣教であると言われています。(新共同訳新約聖書注解T)
 であるならば、私たちの生活も日常的なものから、それを超えた普遍を目指すものに なる、と言うことです。現代の日本では、日々の生業、子育て、看病と精一杯、共倒 れになりかねないぐらい忙殺されています。ゆとりなく、あせりばかりでは人との関 わりも冷たいものになるしかありません。たまには、ゆっくり、羽を伸ばし好きなこ とで時をすごしたくなります。
 イエスの呼びかけは、その私たちの忙中に閑をもたらすのです。日常から超越へ、個 から普遍へ。今日、目を転じましょう。

今週の一句

「七夕や 草刈りの汗 渇く頃」

―もとゐ―


 2004年7月11日() 年間第15主日

 ルカによる福音書10章25〜37節


10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 イエスは私たちを日常から永遠に向かわせます。
 イエスと弟子たちの宣教は、神の国を伝えること、即ち、悪霊を追い出し、病人を癒 すことでした。その時代にも、病み、疲れ、失望した人々が無数いました。彼らは無 謀にもその窮状にある人々に関わって行ったのです。言わば、野次馬的だったので す。
 私たちの日常性を突破するには、この野次馬的が必要です。のぞいてやろう、首を 突っ込もうが私たちを別世界に連れて行くのです。もちろん、いいことばっかりある わけではありません。お節介だとか、偽善的だと批判されるは敵視されることもあり ます。でも、それ自体非日常的ではありませんか。その非日常性に身をさらすこと が、永遠への窓口を開けて行くのです。日常性の殻に閉じこもっている限り、大海を 知らずに終わってしまうのです。
 「あなたも隣り人になりなさい」は野次馬になれ、とのイエスの言葉なのです。

今週の一句

「サマーキャンプ 子らの楽しみ 親の汗」

―もとゐ―


 2004年7月18日() 年間第16主日

 ルカによる福音書10章38〜42節


10:38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 イエスは私たちを野次馬になれと誘います。旅商人のサマリア人は多少自由な金を もっていたのでしょう。傷つき倒れていたユダヤ人を介抱しその後の面倒も頼めるほ どだったのです。でも、足りない分は後で払いますのように、ぎりぎりだったでしょ う。不足分は商売で稼ぎを当てにできたのでしょう。彼は出きる限りのことをしたの です。ところが、一文なしの人だったら後者に何が出きるでしょうか。路上に放置で きないゆえに、他の誰かが通るまで、じっと傍にいたのはないでしょうか。
 マルタは出きる限り以上のもてなしをしようとしました。だから、マリアの手を借り ようとしました。他方、マリアは出きるかぎりのこと、イエスの話しを聴きました。 というのは、彼女は他に出きることがなかったからです。
 今日、恵まれた私たちは出会う人と出きる限りの関わりをするよう呼ばれています。

今週の一句

「汗拭う 佇む夕陽 大暑なり」

―もとゐ―


 2004年7月25日() 年間第17主日

 ルカによる福音書11章1〜13節


11:01イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:02そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:03わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:04わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11:05また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:06旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:07すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:08しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:09そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 無力な者は隣人として傍にいるしかないのですが、彼、彼女の胸中は何でしょうか。 神を密かに呼び続けているのではないでしょうか。
 ルカによる主の祈りの場面でイエスはそのように教えているのではないでしょうか。 先の新潟、福井の豪雨は大変な被害をもたらしました。被災者の悲しみ、苦労を思う と、何かしなければ、と考えるのですが、何も出来ないのが現実です。もちろん、現 地へボランティアに急ぐ人や救援金・物資を送るもたくさんいます。でも、やはり、 何も出来ない自分に忸怩たる思いの人の方が多いのではないでしょうか。その中で、 神への信仰を持つ人々は祈っているのだと思います。イエスも宣教旅行で、また、捕 らえられる前に祈りました。
 よく、人は非難します。祈るだけで何も行動しない、と。けれど、イエスの祈りはそ うではありません。行動の基なのです。神が傍にいてくれるから、イエスは十字架の み道を進んだのです。無力な私たちも神がいるからこそまた隣人となれるのです。


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