ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「見透せば 木の間に揺れる 山の藤」

―もとゐ―


 2004年5月2日() 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章27〜30節


10:27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30わたしと父とは一つである。」

 イエスはいつも私たちのそばにいる。
 イラクでの戦闘激化には心痛い。巨象が蟻と戦っているようだ。人間の賢明さはどこ に行ったのだろう。米国のキリスト者である指導者層はイエスではなく他の声に従っ ているようだ。何も行動しない私も同じだ。
 さて、ヨハネはイエスの十字架の死が私たちの命を豊かにするためと意義づけている が、それはどういう意味だろうか。
 私たちが生の喜び、あるいは、その充実を感じるときはいつだろう。やはり、人を助 けたり、役に立ったり、人の喜ぶことをしたときだろう。しかし、反面、骨折った り、汗を流しても相手が無反応であったり、かえって、しっぺ返しされれば、その人 を恨み、罵ることになる。ということは、私たちは相手の御返しを期待して関わるわ けで、言いかえれば、何の見返りも期待できない人とは初めから関わらないというこ とだ。私たちの生の豊かさは、実に、自分さえよければというみみっちいものだ。こ んな豊かさは誰も心の底では喜んでいないだろう。
 イエスはそのみみっちさに穴を明けた。イエスにとってそもそも命は喜びであった。 何故なら、命は神からの賜物であり、生きるとは神から生かされていることだから。 この神への深い信仰のゆえイエスは命を喜ぶことの出来ない人々に関わられた。その 結果、命を捨てることになっても、イエスは人々の命が豊かになることを優先にし た。
 私たちはこのイエスの姿を見たときちゃちな満足から脱出できる希望を得た。イエス は今も立っていてくださり利己的生にもどる私たちに呼びかけている。私の声を聞き 分けなさいと。

今週の一句

「雨続き ニセアカシアの 重き垂れ」

―もとゐ―


 2004年5月9日() 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書13章31〜35節


13:31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 イエスの生はわたしたちを豊かにするためでした。
 ヨハネはイエスの十字架死を「栄光」と理解しました。人間にとって屈辱の極みである それに彼は何故「栄光」と見たのでしょう。
 ヨハネによればイエスは死の前、弟子たちと最後の食事をとり、その中で、弟子たち の足を洗い、同じように、互いに足を洗い合いなさい、と語られたことを報告してい ます。ということは、イエスはご自身が僕であり、人に仕えることこそがその使命で あることを弟子たちに示されたのです。つまり、イエスの十字架死は仕える究極の姿 だったということです。ヨハネはそこに「栄光」、神の栄光を見たのです。
 私たちはいつも上にあがること、人の上に立ち、命令、指示、支配する絶対君主にな ることを望んでいます。そして、それがこの世界の最高価値となっています。米国の イラク人捕虜虐待もその表れなのです。しかし、その虐待がいかに人間性に反するか は明かですが、日常的それは黙されています。
 それだからこそ、ヨハネの言う、十字架の栄光は私たちに真理を投げかけて来ます。 さあ、上ではなく下にいるよう今日を歩みましょう。

今週の一句

「夏の山 鳥のさえずり 一休み」

―もとゐ―


 2004年5月16日() 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書14章23〜29節


14:23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

 イエスはどこもまでも、十字架の上にまで行っても私たちを見捨てません。
 1世紀末に生きたヨハネの共同体(ヨハネ福音書を生んだ共同体)は天の神のもとに 帰られて、今は地上にいないイエスと自分たちがどのように出会い、どうしたら彼の 導きを聞くことができるかを考えました。2000年後に生きる私たちも同じです。イエ スの言葉と業が今どのように語られ、行われているのか、それに触れ、ゆるされ、力 を与えられるのはどうしてなのか、ヨハネたちはそれが真理の霊、助け主なる霊、即 ち、聖霊の働きによると分かったのです。それは聖書にある天地を創造し、人間に命 を与えた神の霊、息吹きを信じていたからです。
 神は私たちに絶えず働きかけています。私たちをみなしごにはしないのです。それ は、私たちの命が豊かになるためです。私たちがこの神の働きを信じるとき、イエス の声、イエスの手に触れることができるのです。
 今日、イエスの招きを聴きましょう。

今週の一句

「雨上る 早朝の街 風光る」

―もとゐ―


 2004年5月23日() 主の昇天

 ルカによる福音書24章46〜53節


24:46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24:52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24:53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 イエスは、今、語りかけています。
 死から生へと復活したイエスは、私たちの命を新しくします。イラクやパレスティナ 等、この世は私たちを死に至らせようとしています。私たちが目先に捕らわれている と、死の奴隷となっています。
 しかし、イエスはそんな私たちの目を覚まします。私たちはイエスと出会い、どれだ け慰められ、受け容れられ、力づけられたことでしょう。また、個人的なことから他 者や世界へとの関係にどれだけ目を開かせられたことでしょう。つい目先に捕らわ れ、また逆戻りを何度していることでしょ。けれど、イエスはまた招くのです。死で はなく命をもたらした主が生きていること、働いていることの証人になれと。
 死の被うこの世界に自ら生きて、命をもたらす道具となりましょう。

今週の一句

「ひなげしや 揺れて長雨 忘れけり」

―もとゐ―


 2004年5月30日() 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書14章15〜16節、23〜26節


14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 復活のイエスは私たちの命を新たにします。
 新たにされた私たちの命は、イエスの証人になるために与えられました。イエスの証 人とはイエスが愛されたように私たちが互いに愛し合うことです。イエスの私たちへ の愛は無条件でした。罪人であるにもかかわらず、私たちを受け容れてくださったの です。「友のために」、と言うけれど私たちは裏切り者なのです。にもかかわらず、 イエスは命を捨てられたのです。
 イエスは自分の内にいれば、神の内にいることであり、ご自身も神と共に私たちの内 にとどまっている、と言います。
 つまり、私たちの愛は条件付で利己的なものです。しかし、イエスに目を留めるとイ エスのように愛するようになるのです。まさに、聖霊の働きによってなのです。人に 対したとき、まず、目をイエスに向けましょう。


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