ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「イラクより 戻る棺に 紅葉落ち」

―もとゐ―


 2003年12月7日() 待降節第2主日

 ルカによる福音書3章1〜6節


03:01皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
03:02アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
03:03そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
03:04これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
03:05谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
03:06人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 心を鈍くすることなく、主の来臨を待ち望めとイエスは呼びかけます。
 洗礼者ヨハネは主の道を備えよ、と荒野で声をあげました。
 神の声は荒野から発せられたのです。エルサレム神殿やシナゴーグからではなく、また、ローマからでもなかったのです。この世の中心からの声は何と空しく、恐ろしいでしょうか。この国の指導者たちは何故、イラクに自衛隊を派遣するのでしょうか。また、年金改革は誰が得するのでしょうか、等々。大企業や大宗教団体からの声も何と利己的でしょうか。
 神の声は、イラクから、アフガンから、スラムや路上から、病院や施設から、十字架上のイエスから発せられているのです。心を鈍くしないように、耳を傾け、私たちも声をあげましょう。

今週の一句

「風に舞う 銀杏ひとひら イルミネーション」

―もとゐ―


 2003年12月14日() 待降節第三主日

 ルカによる福音書3章10〜18節


03:10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
03:11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
03:12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
03:13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
03:14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
03:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
03:16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
03:17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
03:18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 神の声は荒野から聞こえてきます。
 悔い改めの洗礼を受けに来た人たちは、みな、下層の人々でした。エルサレムのサドカイ派や律法学者、ファリサイ派、等のいわば宗教指導者、社会的エリートたちではありませんでした。むしろ、宗教的には、「罪人」と呼ばれた人々でした。何故なら、前者らに幸いを与えるのは、この世の政治、宗教ではなく神だけだったからです。したがって、彼らはヨハネに尋ねたのです。「どうすればよいのですか。」
 他方、後者らは頼るものをたくさん持っていました。信仰、業、知識、富、地位、名誉、等です。むしろ、彼らはそれらに誇りをもっていました。したがって、「もう十分している、幸いはあたりまえだ。」、ヨハネのもとに行く訳がありません。
 私たちは、神の声を聴きに荒野へ、そして、何をしたらよいのか「貧しき人々」のところへ尋ねに行きましょう。

今週の一句

「街並木 薦がけ終えて 聖夜待つ」

―もとゐ―


 2003年12月21日() 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章39〜45節


01:39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
01:40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
01:41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
01:42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
01:43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
01:44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
01:45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 神に望みをおくものは幸い、と洗礼者ヨハネは声を上げました。
 エリサベトとマリアの邂逅は、この世的には汚点を負わされた者同士の出来事でした。二人はその不条理をどのように受け止めたのでしょうか。自分ひとりだけでは到底負いけれるものではなかったでしょう。絶望と孤独のうちに打ちひしがれていたことでしょう。しかし、幸いに、彼女らには良き夫がいました。けれど、それ以上の社会からの圧力には二人だけでは坑しきれませんでした。例えば、犯罪者の家族への社会的制裁には容赦がないように。
 この不条理を彼女ら夫婦は神に委ねたのでした。神が必ず私たちに大きな働きをしてくれると望みをおいたのです。いや、そうと信じるしかなかったのです。かっての出エジプトの出来事、バビロニアからの帰還、また、ハンナに起きた神の顧みを思い起こすことによって。
 二人は出会ってそれを確かめ合ったのです。
 今、私たちは不条理にあっている人々とどのように接することができるでしょうか。エリサベトやマリアのように会って耳を傾けることから何かが始まるのではないでしょうか。

今週の一句

「一分の 日の入り伸びし 冬至明け」

―もとゐ―


 2003年12月25日() 主の降誕 夜半

 ルカによる福音書2章1〜14節


02:01そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
02:02これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
02:03人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
02:04ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
02:05身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
02:06ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
02:07初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
02:08その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
02:09すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
02:10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
02:11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
02:12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
02:13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
02:14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 神は苦難にある女性を祝福されました。
 荒野で野宿する羊飼いらの心境はどうだったでしょうか。
 穴蔵に逃げ隠れていたサダム・フセイン元イラク大統領はどうだったでしょうか。
 イラクに派遣される自衛隊員らはどうでしょうか。
 日々の暮らしに追われる私たちはどうでしょうか。
 神の愛のしるしであるイエスの誕生、それぞれに届いたことでしょう。
 しかし、私たちは他に較べ、何と幸いを与えられていることでしょう。神の愛は、私たちの心を羊飼いに、フセインに、自衛隊員に向かわせます。神の望む、平和がこの世に実現するように私たちをその道具にするのです。

今週の一句

「教会へ 今日は行こうか 降誕祭」

―もとゐ―


 2003年12月28日() 聖家族

 ルカによる福音書2章41〜52節


02:41さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
02:42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
02:43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
02:44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
02:45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
02:46三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
02:47聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
02:48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
02:49すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
02:50しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
02:51それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
02:52イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 荒野にある人々のところへ神は来られます。
 どんな親でも子どもの成長は気がかりです。親の思いつかない行動をよく取ります。子どもをよく見ていないと、逸脱した行為をすることもしばしばです。「凶悪犯罪」をした子の親はどんな思いでしょうか。神は彼らを祝福されるのでしょうか。
 聖家族は呪われた家族でした。父親のわからない母と子と養父ヨゼフの家族、当時の社会ではとうてい受け容れがたいものだったでしょう。激しい憎悪と軽蔑にさらされたことでしょう。
 イエスはそのいじめと差別のなかに耐えて生きて行くうちに,弱くさせられた人々への共感が造られていったのではないでしょうか。そのイエスを育てたマリアとヨゼフは逆行の中に神の働きを信じていたからこそ、耐え抜けたのです。それを人は馬鹿というかもしれません。
 しかし、その馬鹿なことへの賭けに展望が開けるのです。
 私たちもきっと神の働きのあることを信じて、逆境に対峙しましょう。


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