ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「薄暮れや 秋かまきりと 同じ色」

―もとゐ―


 2003年11月2日() 死者の日

 ヨハネによる福音書6章37〜40節


06:37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
06:38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
06:39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
06:40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 道端に座っている人々に声をかけなさい、とイエスは招いています。
 かって、シリア・セレウコス朝の支配下にあったユダヤでは、そのギリシャ化に抵抗し殉教して行った者がいました。彼らの死は「義人の死」として世の終わりには、神からの栄光が与えられ、復活するという信仰が生まれました。つまり、律法に忠実で、命を賭けて守った者には永遠の生命が与えられる、という応報主義に基づく考えでした。これでは、永遠の生命は一握りの英雄にしか与えられないのです。ファリサイ派はそれを競ったのです。
 それに対し、イエスは自分に頼る人々には永遠の生命を与えると言われました。イエスにあっては人の功績に関わりなく、恵として与えられるのです。つまり、万人に開かれているのです。小さき者への福音なのです。私たちは恐れることなくイエスの招きに応え、日々の呼びかけに従って行きましょう。

今週の一句

「凛として 燃え立つ銀杏 神々しく」

―もとゐ―


 2003年11月9日() ラテラン教会の献堂

 ヨハネによる福音書2章13〜25節


02:13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
02:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
02:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
02:17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
02:18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
02:19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
02:20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
02:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
02:22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
02:23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
02:24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
02:25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 律法にではなく、自分への信頼が永遠の命に至るとイエスは招きます。
 同様に、イエスは神殿に救いを求めていた人々にその欺瞞性と儚さを指摘し、自分への信頼を呼びかけています。神殿はもともと神と人々の繋がりを確保するための場でした。しかし、支配者たちはそれを人々からの搾取の場に変えてしまったのでした。
 一方、イエスは人々から奪うのではなく与えるのでした。自分の生命までも。イエスが人々に求めることは信頼することだけ、そして、感謝のうちに生きることだけなのです。何故なら、犠牲を奉げなくても、神は人々を愛しゆるされているからです。
 教会も人々に与えるものになりましょう。

今週の一句

「引き抜きし 大根白き 冬至の陽」

―もとゐ―


 2003年11月16日() 年間第33主日

 マルコによる福音書13章24〜32節


13:24「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13:25星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13:26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
13:28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
13:32「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。

 イエスは受ける方ではなく与える方です。
 メメント モリ。わたしたちの生は死に直面したものです。死、終わりがあることは私たちの生にとって何の意味があるのでしょうか。それは、有限で一回限りのものであるということです。それ故、V・フランクルは生からの問いに答える責任があると言います。確かに、私たちの日々の出来事、出会いは一度きりであるために、その都度の選択も一度限りであることを経験しています。ああすれば、良かった、ああしなければ、良かったのにとか。しかし、普段はごく当たり前に、明日があるとして、日々の責任を先送りしているのではないでしょうか。先日、不慮の事故のため18歳で亡くなられた青年の葬儀ミサをしました。親や姉妹にとってその突然の死を受け取ることはとてもできないでしょう。ところが、母親は息子の生を短かったけれど、友だちも多く、青春を思いっきり楽しんだ、と語られました。彼女は息子の生をそのように認め、受け入れたのでしょう。私は彼女の思いに胸を打たれました。
 だからこそ、私たちはイエスの言うように、迎えがいつ来てもいいように目をさましておくこと、即ち、今、神の呼びかけ、高齢者、病人、貧しい人々、他国からの寄留者からの問いかけに答えられるようにしたいのです。

今週の一句

「玉葱の 苗床濡らす 時雨なり」

―もとゐ―


 2003年11月23日() 王であるキリスト

 ヨハネによる福音書18章33〜37節


18:33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18:34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18:35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18:36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18:37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 一回限りの生を大事にしよう、とイエスは呼びかけています。
 その生に人はどのように答えるのでしょうか。
 ピラトはユダヤの総督として権力を奮い、更に、富と力を得ようとしました。そのための一つとしてイエスを処刑したのです。彼は当時ローマで皇帝以上に権力を握っていた近衛軍司令官セイアヌスの庇護を得て出世したのです。セイアヌスは権力を得るために皇帝の息子さえも暗殺したのでした。このように、この世での権力争いに生きる者の真理は倒すか、倒されるかなのです。ブッシュを見ればわかります。
 一方、イエスの真理は神の御心を行うこと、つまり、すべての人に永遠の生命、価値ある生命を与えることでした。そのために、彼は人々が幸いになるよう奉仕したのです。
 私たちエゴにばかり執着しないで、このイエスの真理を人々に伝えましょう。

今週の一句

「山ひとつ 錦染めて 待降節」

―もとゐ―


 2003年11月30日() 待降節第一主日

 ルカによる福音書21章25〜28節、34〜36節


21:25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21:26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21:27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21:28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
21:34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21:35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21:36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 真理を証しするために来た、とイエスは語られます。
 典礼暦では待降節から新しい年になります。その初めの4週間を主の降誕、再臨を待ち望む準備の期間として過ごすよう教会は定めています。日本では師走と言ってあわただしいこの時期にそうすることはとても意義があるように思います。
 私たちは一年中走り続けています。そして、走っていなければ後ろめたく思う雰囲気があります。その中で、何かを失っています。自己中心的になっていないでしょうか。そんな、私たちにイエスは呼びかけています。「心が鈍くならないように注意しなさい。」
 だからこそ、この時期、忘れがちな人々のことを思い出す時にしたいものです。身近な人たちの声を聴いたり、戦争、暴力、病気、貧困によって苦しい、困難な日々を余儀なくされている人々のことを思う時期に変えたいものです。


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