ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「自転車で 出会いがしらの 金木犀」

―もとゐ―


 2003年10月5日() 年間第27主日

 マルコによる福音書10章2〜16節


10:02ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:03イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:04彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:05イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:06しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:07それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:08二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:09従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10:11イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10:12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
10:13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 小さき者と関わるように、とイエスは招きます。
 当時の女性は小さい者の代表でした。男性中心の社会で、一人前とは見なされず子ども同様に尊厳もなく虐げられていました。結婚も離婚も男性の意のままで、離婚された女性は経済的にも苦境に立たされたのでした。イエスは離婚された女性の悲惨さに目を留められたのでした。
 イエスの目はいつも苦難にある人にありました。彼女らの苦難から制度、律法、宗教を見直したのでした。小さき者との出会いは苦難の原因を知ることになります。神の所為ではなく、人間の働きを知らされるのです。
 神は男女の連帯性を意図しました。しかし、人は支配―被支配を、上―下の関係を作ってしまったのでした。ブーバーの言う「我―それ」にしてしまったのです。
 私たちも今ある視点からではなく、キリストのうちに、困難、苦難にある人に立って感じ、行動しましょう。

今週の一句

「宵の空 つつまし明かし 十三夜」

―もとゐ―


 2003年10月12日() 年間第28主日

 マルコによる福音書10章17〜30節


10:17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

 寄る辺ない子どもや女性のそばにいなさい、とイエスは招かれます。
 イエスとの出会いは、私たちを他者に向き合わせます。
 他者との関わりは互いに、これでいい、十分だ、と言うことはありません。むしろ、駄目だ、足りない、出来ない、と後悔するほうが多いでしょう。神との関係も同じでしょう。過ちに胸を打つばかりでしょう。
 ところが、金持ちの青年は神の掟を守っていると自負したのです。永遠の生命を当然貰えると自惚れていたのです。そんな彼にイエスは自分の足りないこと、愚かさに気づき、傲慢を打ち砕く言葉をかけたのでした。
 私たちもこのイエスの言葉や、続く、弟子たちへの言葉の前には、この青年と同じように立ちすくみ、うな垂れ、イエスに背を向けるだけです。
 永遠の生命、それは恵なのです。私たちに出来ることは、神と他者からのゆるしをいただく、即ち、そばに、居させてもらうことだけなのです。

今週の一句

「秋風や リフト恐々 絶景かな」

―もとゐ―


 2003年10月19日() 年間第29主日

 マルコによる福音書10章35〜45節


10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 神と人の前では誇れない我が身を知れ、とイエスは言われました。
 またしても、弟子たちは名誉や権力を欲しがります。あの金持ちの青年のように、財産もありながら、なおかつ、永遠の生命、即ち、神の誉れをも欲しがるのと変わりありません。
 私たちが、この世で楽な生活をしながら、神からの救いを得ようとあつかましくしているのも同じです。
 しかし、イラクやパレスティナの女性や子どもたちはどのように過ごしているのでしょうか。心を寄せるとき、何もしない私に恥じ入るばかりです。
 イエスは無理解で強欲の弟子たちに、それでも、招きます。小さくされた人々に奉仕しなさい、と。私たちも、イエスに呼ばれています。無力ながらも彼らのために汗を流しましょう。

今週の一句

「霜降や フロントガラスの 水化粧」

―もとゐ―


 2003年10月26日() 年間第30主日

 マルコによる福音書10章46〜52節


10:46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10:47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10:48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10:49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10:50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10:52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 小さくされた人々に仕えなさい、とイエスは招かれます。
 道端にうずくまっている人々、若者、失業者、ホームレスの人々、わたしたちは、毎日、これらの人々を見かけます。しかし、見てはいません。通り過ぎて行きます。関わりを恐れて。
 イエスは弟子たちの目を開かれます。「呼んで来なさい」と。彼らは盲人バルティマイに近づき「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と声をかけました。この呼びかけは、実に、弟子たち自身がイエスからかけられた言葉だったのです。弟子たちは、この呼びかけに自己を再発見し、新たな人生、人に仕えることにチャレンジして行ったのでした。
 ところが、やがて、目が曇り、自分だけを見て、他者を見ることを忘れてしまったのです。もう一度、私たちは見えるように、イエスに願い、道端にうずくまっている人々に声をかける勇気を祈りましょう。


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