ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「朝陽照る 雲の間の 秋の空」

―もとゐ―


 2003年9月7日() 年間第23主日

 マルコによる福音書7章31〜37節


07:31それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
07:32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
07:33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
07:34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
07:35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
07:36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
07:37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 人の言い伝えではなく、神の心に耳を傾けよ、とイエスは告げます。
 イエスの働きは耳と口の不自由な人を癒し、彼の生命を新たにしました。同様に、イエスの神の国の宣教は、人々の不自由な心を解き、生を喜びに変えるのです。イエスの呼びかけに出会う前、ファリサイ派たちは「人の言い伝え」に縛られ、心を硬直させ、弱者の痛みに耳を閉ざしていました。彼らの人生は失敗、後戻り、停滞をゆるさない、緊張したレースのようなものでした。それは、「人の言い伝え」を神にし、裁きの神、怒りの神としてしまったからです。他方、イエスは彼らから罪人と呼ばれ、人生の落伍者として差別と排斥を受けていた障がい者を、認め、手を当て、自由にしたのです。イエスの神は慈しみ、共におられる方だからです。
 イエスに触れられて、心を解きほぐしましょう。

今週の一句

「6万年前 十五夜の空の 月と星」

―もとゐ―


 2003年9月14日() 十字架称賛

 ヨハネによる福音書3章12〜17節


03:12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
03:13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
03:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
03:15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
03:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
03:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 イエスは私たちの耳掃除をしてくれました。
 声の通りがすっかりよくなると、それまで、教えられて来た神様とは違う神様に出会うことができました。滅ぼす神ではなく、永遠の生命を与えてくださる方、裁くのではなく救う神様にイエスは引き合わせてくださったのです。かって、ファリサイ派的業績主義の中では失格者、落ちこぼれ、劣等生として失望のうちに悶々と生きていた私は、このイエスの神様と出会って、生きる意味、喜びと希望を与えられたのでした。私の生きる喜びはこのイエスと神様を多くの人々に紹介することです。こんな出来そこないの私に声をかけてくださる方がいることを証ししたいのです。

今週の一句

「大根播く かがむ背中に 西日落ち」

―もとゐ―


 2003年9月21日() 年間第25主日

 マルコによる福音書9章30〜37節


09:30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
09:31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
09:32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
09:33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
09:34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
09:35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
09:36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
09:37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 イエスの十字架は小さくされた者たちとの関わりの徴でした。
 イエスの宣教はこの生き方を広げることでした。そのため、イエスは必要なものは神が備えてくださると自ら無一物になり、また、弟子たちにも呼びかけたのでした。しかし、それは順風満帆ではなく、無理解と偏見の旅でした。イエスは気づいていたことでしょう。結果的には、体制を批判し、民衆の人気を得たことが十字架死につながることを。他方、従った弟子たちは表面的なことに気を取られ、即ち、民衆からの熱狂的支持に自分たちの世俗的成功を見てしまったのです。弟子たちは未だイエスの旅の真意を理解していなかったのです。むしろ、イエスの誘いは、ファリサイ派的生き方、出世競争で有利に立てると勘違いしていたのです。
 イエスは再び彼らの目を覚まそうとします。私たちが仕えるのは自分自身にではない。何も頼るべきもののないこの小さな子どもに仕えるのだ。この子の人生が喜びと感謝になるよう手助けする、そのためには、時には生命を捨てなければならないことがあるかもしれない、しかし、それこそが、私たちの幸せなんだ、と。
 このイエスの呼びかけに、ついて行きましょう。

今週の一句

「秋雨の 一滴に芽出す 大根かな」

―もとゐ―


 2003年9月28日() 年間第26主日

 マルコによる福音書9章38〜42節、45節、47節〜48節、


09:38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
09:39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
09:40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
09:41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
09:42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
09:45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
09:47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
09:48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

 いと小さくされた者を受けいれなさい、とイエスは呼びかけます。
 弟子たちのイエス信従の道は、平坦ではありませんでした。何度も何度も、失敗と挫折、裏切り、の連続でした。弟子たちは社会的には一人前に扱われていたのですが、神の前では小さい者だったのです。
 しかし、イエスはその都度、彼らの一人一人に目を留め、手を差し伸べ、触れられたのでした。そして、彼らはまた歩き出したのでした。イエスの思いは、誰もが神の祝福、生きていて良かった、と言える人生に与ることでした。
 そのため、イエスはあなたがたも小さくされた人々と出会って、互いの人生に関わり合おうと呼びかけているのです。


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