ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「親つばめ 軒下のぞき 宿さがし」

―もとゐ―


 2003年5月4日() 復活節第3主日

 ルカによる福音書24章35〜48節


24:35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
24:36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24:44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48あなたがたはこれらのことの証人となる。

 イエスは自ら現れます。
 エイズと同じように、人間は新しい病気には全く無力と言えます。新型肺炎SARSも瞬く間に広がり、多くの人を死に至らしめてています。人間の弱さ、脆さをあらためて知ることになりました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり」(参照 創世記2・6)このような人間の肉体の脆弱性に依存した人間関係も同時に壊れやすい、はかないものになります。たとえば、健康に依存する人間関係はそれを失ったとき、壊れるのではないでしょうか。
 イエスが甦った、とはその肉体が永遠に変らない姿で私たちに現れる、と言うことではありません。もし、そうなら、いつまでも年をとらない、病気もしないイエスを、むしろ私たちはうらやみ、嫉妬することにならないでしょうか。
 復活、それは肉体に依存する、つまり、表面的な関係ではない、生と死を超えた、もっと奥深いイエスとの関係、交流が始まったということなのです。イエスの方から私たちに関わって来られるのです。イエスは私たちの方へ近づいて来られるのです。イエスは健康な若者としてではなく、パウロの言うように、すべての人にとってのイエスになるのです。「『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」(ローマ10・11−12)ほら、目を清まし、耳を傾け、心を澄ませてごらん、イエスが待っておられるよ。

今週の一句

「五月空 白き花房 そよぎけり」

―もとゐ―


 2003年5月11日() 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章11〜18節


10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 死を超えた関わりをもとうと、イエスは私たちを招かれます。
 先日、テレビのニュースで日本政府の高官が大臣が日本人を見捨てない、とある集会で明言しているのを見ました。それを見て、これまでの日本の歴史は彼の発言と反対のことを証明している、と思いました。かって、日本は中国に多くの国民を捨ててきました。また、最近では、サダム・フセインは姿を隠して、イラク国民を見捨てました。ブッシュ大統領は国民を犠牲にして利益を得ようとしました。私利私欲に走っている指導者、権力者は、結局、自分を守るために人々を犠牲にしてきたのではないでしょうか。
 イエスと関わってきた人々は、イエスもまた歴史上のそれだとは思わなかったのです。
 イエスの生は人々を惑わし、たぶらかし、見捨てて行く、雇われ羊飼いの生とは違うのを発見したのでした。むしろ、羊のように弱いわれわれを守り、命を豊かにするために、その生命をも捨ててくれた人なのだと見抜いたのです。しかも、それは、人間の力だけではできっこないゆえに、神から遣わされた方だと信じたのでした。それほど、イエスの生は人々の目を開かせた出来事だったのです。
 わたしたちもこのヨハネの証言を通してイエスに出会い、また、人々に証しして行きましょう。

今週の一句

「洗濯干す 窓の外には  蝸牛」

―もとゐ―


 2003年5月18日() 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書15章1〜8節


15:01「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:02わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:03わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:04わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:05わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:06わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:07あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:08あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 良い羊飼いの導きに、喜んでついて行くように、イエスは呼びかけています。
 ここ多治見修道院のぶどうはいつのまにか芽を出し、蔓を伸ばしています。ついニ、三ヶ月前までは、幹と幾本かの枝を残して丸裸同然でした。その間も、枯枝をはらわれ、畑を耕し、肥料をまくなど、手入れは続けられていました。今は、草刈りや消毒などに追われています。他方、廃止されたぶどう棚の方は、幹も切り払われ、今や、草茫々の荒地と化しています。同様に、私たちも神が愛し続けられるが故に、生かされ実を結ぶことができるのです。神が私たちを見捨てるなら、荒地になるばかりなのです。
 私たちにはそれほどの資格はありません、あるのはイエス・キリストの働きなのです。イエスの業のために神は私たちを愛し続けられるのです。
 さあ、イエスにしっかり繋がっていましょう。

今週の一句

「とんび鳴く 玉葱光る 天が下」

―もとゐ―


 2003年5月25日() 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書15章9〜17節


15:09父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 私につながっていなさいとイエスは呼びかけています。
 今日の戦争や暴力、新しい感染症に私たちは何を見出すでしょうか。人々は何を求めているのでしょうか。幸福には違いないでしょう。しかし、その幸福は何であり、何によって達成されるのでしょうか。
 イエスは言います。「わたしの愛にとどまれ。」病み、傷つき、悩み、悔いる者を友と呼び、そばにおられ、その友のために命を捨てられる方、この世の与える幸ではなく神が与えられる幸いに導かれる方にとどまれ、とイエスは招くのです。
 人間的栄光や勝利の幸いは力、陰謀、嫉妬、に勝ち続けるしか与えられません。そこには勝者と敗者しかありません。他者の命を奪ってしか得られない幸いなのです。一瞬たりとも,休めない,休む所がないのです。
 そんな私たちをイエスは自分にとどまれば、安心して、他者との愛に生きられる、と励ますのです。
 イエスの愛に浸りながら、ゆったりと自分を投げ出して行きましょう。


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