ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「はやばやと 門松飾り 福を呼ぶ」

―もとゐ―


 2003年1月1日(水) 神の母聖マリア 世界平和の日

 ルカによる福音書2章16〜21節


02:16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
02:17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
02:18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
02:19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
02:20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
02:21八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 聖家族は神を中心に、互いの使命を全うするようにそれぞれのパートナーとなりました。
 人にはそれぞれ神から恵み、使命を与えられています。荒野で野宿している羊飼いらはに、飼い葉桶の幼子がキリストであることを人々に伝える使命を与えられました。なぜ、羊飼いだったのでしょうか。祭司や律法学者、ファリサイ派などの宗教指導者ではなく、その職業ゆえに賎視されていた彼らだったのでしょうか。
 神はマリアや羊飼いらの小さき者に目を留めてくださる方だからです。なぜなら、彼・彼女らこそが神の救いを望んでいるからです。そこそこの衣食住ある者や、そのうえ、職、地位、学歴のある者は現状維持で変化、救いを望まないからです。
 12・28の朝日新聞の写真には、アフガンの洞窟で寒さで衰弱し、今にも凍え死にそうに横たわる子と無力に呆然とその子を見つめる父親の姿がありました。私たちはこの子らにこそ平和が訪れるべきだと思いました。羊飼いやこの子らは神からのメッセンジャーです。それは、満ちている我々に反省と行動を促すものなのです。
 メッセージを受けた私たちは立ち上がりましょう。

今週の一句

「オリオンや いつもの位置の 年の明け」

―もとゐ―


 2003年1月5日() 主の公現

 マタイによる福音書2章1〜12節


02:01イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
02:02言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
02:03これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
02:04王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
02:05彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
02:06『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
02:07そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
02:08そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
02:09彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
02:10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
02:11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
02:12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 羊飼いらが救い主キリスト誕生の証人になったように、私たちもキリストを伝えるようにと招かれています。
 今回の証人は東方の学者たちでした。彼らはその専門の占星術から救い主誕生を待っていたのでしょう。尋ねる者には開かれるのです。やがて、彼らは不思議な星を発見し、救い主を探しに旅しにきたのでした。このことは、救い主はユダヤ教徒のみならず、他宗教、他民族にとっても待たれていたと考えられるのです。

 今日、イスラムと西洋などの宗教戦争、民族紛争が激化するにあって、私たちは対立を乗り越え、両者が共存し、ともに平和、自由、正義を求める必要があります。
 十字架のイエス、他者と共に生きられたイエスこそが一極支配から痛みを分かち合うその模範になるのだと、東方の学者たちは証ししたのです。

今週の一句

「昼下がり 揺れる晴れ着の 成人式」

―もとゐ―


 2003年1月12日() 主の洗礼

 マルコによる福音書1章7〜11節


01:07彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
01:08わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
01:09そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
01:10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
01:11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 東方の学者たちは救い主イエスの誕生をユダヤの人々に告げました。私たちもイエスを証しするよう招かれています。
 神の働きは小さく弱く、この世が敬遠し排除するところから起きてきます。マリアしかり、羊飼い、東方の学者たちが神の使者となったようにです。
 荒野で修行し、人々に悔い改めの洗礼を授けていた洗礼者ヨハネ、確かに、彼の下には救いを求めるユダヤの民衆が続々集まってきていた。しかし、中央の宗教指導者たちは怪しく、胡散臭い目で見、辺境の一宗教運動として処理しようとしていた。
 神はそのヨハネのもとにイエスを遣わされたのです。世界の片隅で、権力者たちからは無視され、敵視されているところと神は連帯されるのです。神はヨハネのもとで洗礼を受けられるイエスに言われます。「わたしの愛する子。」
 神が不在かと思う私たちはヨハネのもとに行きましょう。小さい人々から学びましょう。

今週の一句

「大寒や 3年生からの 職さがし」

―もとゐ―


 2003年1月19日() 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章35〜42節


01:35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
01:36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
01:37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
01:38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
01:39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
01:40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
01:41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
01:42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 イエスが洗礼者ヨハネの下で洗礼を受けたように、私たちは偉大な先人たちから学ぶように呼びかけられています。
 ヨハネはイエスの成長を見守っていたことでしょう。イエスに働く神の姿を。ある日彼は確信したのです。イエスが「神の子羊」であることを。ヨハネはそれを弟子たちに言わずにはおれなかったのです。弟子たちはヨハネのその言葉を確かめたかったのでしょう。イエスの後に従ったのです。イエスの旅について行き、やがて、十字架のイエスに出会ったのでした。
 私たちは既にそのイエスと出会い、新しく生まれ変わる恵みをいただきました。その喜び苦しみをまだイエスを知らない人々に証しするよう招かれています。それは、言葉によるのではなく、日々、人々との関わりにおいてです。人を理解し受け入れる恵みを願いましょう。

今週の一句

「霜の原 凛と伸び出す 球根たち」

―もとゐ―


 2003年1月26日() 年間第3主日

 マルコによる福音書1章14〜20節


01:14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
01:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
01:16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
01:17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
01:18二人はすぐに網を捨てて従った。
01:19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
01:20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 イエスは招いています。私についてきなさい、と。
 ヨハネの弟子たちはイエスの泊まっているところを尋ねました。
 イエスは彼らに呼びかけました。私についてきなさい。彼らはついて行きました。
 イエスの神の国の告知は私たちを決断させます。従来どおりの生活にとどまるのか、イエスと共に全く新たな生活へと旅立つのかを。
 さて、その前に、私たちは呼びかけ主であるイエスを知らねば成りません。聖書を読むとは、そのイエスに出会うことなのです。しかし、頭の中だけで理解するのではないのです。ついて行くこと、見聞きし体験することなのです。そのためには、今までの自分を捨てること、無知、無心が求められるのです。
 呼びかけられた漁師たちは今まで彼らを支えていたすべてを捨てて従いました。

 私たちもイエスとの旅を始めるにあたって過去の自分とおさらばしましょう。


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