ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「リストラや 挙式ゼロ件 神無月」

―もとゐ―


 2002年11月3日() 年間第31主日

 マタイによる福音書23章1〜12節


23:01それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23:02「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23:03だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23:04彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
23:05そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
23:06宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
23:07また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
23:08だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:09また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 神に仕え、人を愛するようにイエスは呼びかけています。
 神への愛を、ユダヤ教指導者たちは神殿礼拝と律法の遵守と思い厳格に励んでいました。しかし、人が己の働き、業績に頼るとき、傲慢で自己中心的になり、小さき者への配慮を忘れることになります。律法学者やファリサイ派の人々が安息日の律法を狭く守るばかりに、病気に苦しむ人を省みなかったように。私たちもミサ前に大声で祈ることに気を取られて、もてなすことを忘れたりしていないでしょうか。
 神への愛とは、私たちが神の前に自己を置くことなのです。神の前の自分、たとへ、どんなに学位や業績、富が豊にあったとしても、赤裸々な自分しか置くことができません。何と利己的で、弱く、貧しく、偽善的で罪深い者であることが見えてこないでしょうか。
 イエス様が人への愛と神への愛をセットにするのは、まず、神の前に立ちなさいと言うことなのです。神の前の自分はゆるしと憐れみを請う者でしかありません。人の上に立ったり、裁くことはできないのです。
 さあ、私たちは神の前に立ち、憐れみをいただいて、身を屈めて人に関わって行きましょう。

今週の一句

「擁壁の 裂け目にすくっと セイタカ草」

―もとゐ―


 2002年11月10日() 年間第32主日

 マタイによる福音書25章1〜13節


25:01「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
25:02そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:03愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25:04賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
25:05ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
25:06真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:07そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25:08愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25:09賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
25:10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25:11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25:12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25:13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 神の前で自分を吟味しなさい、とイエスは呼びかけています。
 婚礼の花婿を迎え、その祝宴にあずかるためには、油を十分用意するように、注意深くあれ、それは、花婿がいつ来るかわからないから、と今日の福音は伝えています。
 昨年の9・11テロのように、死は突然やって来ます。そのような私たちの生に戸惑いながら、それが喜びになり、価値あるものにするのにはどうしたらいいのかと思案してしまいます。
 イエスは、その生を「今や、時が満ち満ちた時であり、神の国が始まっている、その時」として、喜びと感謝のうちに生きました。いわば、生を所有するのではなく、分かち合ったのでした。
 私たちは生を所有し、その上に、喜びや価値を付け加えよう、獲得しようとしています。しかし、イエスは生が与えられたものであり、喜びも幸いも与えられているのです。したがって、イエスにとって生きるとはそれを分かち合うことにほかならないです。
 私たちの生には喜びも価値もすでに備わっているのです。それを出し惜しみしてはいけないのです。人々に、気前よく、プレゼントしましょう。

今週の一句

「水鳥の 浮かぶ川面に 光揺れ」

―もとゐ―


 2002年11月17日() 年間第33主日

 マタイによる福音書25章14〜30節


25:14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して
おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 目を覚まし、用意していなさい、とイエスは呼びかけています。
 先週は用意していた油が十分かどうかが、結果を左右し、同じ用意でも用心深さが求められたのでした。
 ところが、今日の場合は、用心深くても見誤ると、とんでもない結果になることが表されています。預けられた1タラントを1銭たりとも失うまいと、地中に隠した僕が主人に叱られたのでした。
 その僕の見誤りは主人を怖く厳格な人であると勘違いしていたことなのです。というのいは、彼以外に預けられた人はそう思わないから、大胆に投資したり、技術革新したりできたのです。
 ファリサイ派や律法学者は前者のように神様を狭く、小さく、けちに見すぎてしまったのです。ですから、重箱の隅を突っつくように律法の遵守を競ったのでした。生を豊に、永遠に導くはずの律法、即ち、神のみ心を死や争い、憎しみの種にしてしまったのでした。
 神様の大きな心の前で、私たちはいただいた賜物を大胆に、惜しみなく、使い切りましょう。

今週の一句

「修院の 楓くぐれば 紅染まる」

―もとゐ―


 2002年11月24日() 王であるキリスト

 マタイによる福音書25章31〜46節


25:31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33羊を右に、山羊を左に置く。
25:34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 賜物を大胆に使え、とイエスは呼びかけています。
 1タラント地中に隠した僕は主人を厳格な、怖い人と見誤ったため、怖気づいて大胆になれませんでしたし、他方では、当然なことをしたまでで、何が悪いかと主人に主張しました。
 神の掟、律法に従う、守るということは、自己を立てるためにではなく、タラントを預けられたようにそれを用いてお返しすることなのです。即ち、先行する神の愛とゆるしをいただいた私たちは愛とゆるしを人々に返す、ということなのです。
 やぎのように左に分けられた人たち、つまり、ファリサイ派や律法学者は王への愛を施したと主張しました。一方、永遠の救いを与えられた人々は王に施したことは知らない、と言いました。
 わたしたちも、自分の信仰を自分の利益のためにしているなら勘違いしていることになるのです。後者のように、見知らぬ最も小さい人々への憂慮と配慮を自発的にすることこそが、王、神の喜ばれることなのです。


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