ももちゃんの一分間説教

バックナンバー


今週の一句

「始発前 駅舎に響く 虫の声」

―もとゐ―


 2002年9月1日() 年間第22主日

 マタイによる福音書16章21〜27節


16:21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16:23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
16:24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
16:26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
16:27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

 イエスは岩である神の上に教会を建てるよう、私たちを招かれました。
 イエスの道は十字架の道です。これはわたしたちには愚かで躓きです。従って、この道が真理であることは、論理的には説明不可能です。イエスと同じように十字架を担う、自分の生命を放棄してみるしかないのです。
 現代世界における権力は、かってのように、人の命を奪い、殺すことにあるのではなく人々の命を生き長らえさせること、であると言われています。※〜例えば、国がテロリストから国民の命を守る、ということで非常事態をとることは容認されてしまいます。しかしながら、その結果、国民は自由や権利を制限され、個人情報まで知られてしまいます。つまり、生命を守ってもらえるといっても、籠の中の鳥としてしか生きられなくなってしまうのです。そんな命には魅力があるでしょうか。
 イエスはそんな安全第一の生命ではなく、他者を生かし、幸いを分かち合うための命を得なさい、というのです。そのために、私について来いと呼びかけられるのです。
 賭けてみましょう。籠の中の鳥にならないために。

今週の一句

「出勤の ざわめき前の 虫の声」

―もとゐ―


 2002年9月8日() 年間第23主日

 マタイによる福音書18章15〜20節


18:15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 十字架を背負って私について来なさい、とイエスは招きます。
 イエスは私たちが受け容れる人を逆転します。
 通常、私たちが付き合う人はこの世的価値を有する人や物分りのいい人、適応性のある人、おとなしい人、等等、こちら側に非常に都合のいい人に限られます。
 逆に、都合の悪い人たちは敬遠、排除してしまいます。私たちは「理解するより、理解されること」を望んでいます。
 しかし、イエスはそういう私たちに、子どもを受けいれなさい、とか、つまずきにならないようにとか、探しつづけること、気長に説得するように、と呼びかけるのです。
 何故なら、神様が私たちをそのように限りなく愛しておられるからだ、とイエスは言うのです。
 私たちは感謝して、子どものような私自身をまず受けいれましょう。そして、人を理解しましょう。

今週の一句

「大根の 種まく背中 夕陽照り」

―もとゐ―


 2002年9月15日() 年間第24主日

 マタイによる福音書18章21〜35節


18:21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 子どもを受けいれよう、とイエスは私たちに呼びかけます。
 ブッシュ大統領は何故、それほどイラクとの戦争をしたがっているのでしょう。
 去年は、テロへの報復戦争をアフガンで始め、何千の名も無き民衆をその空爆の犠牲にし、そのため、テロリストの報復テロに脅えるという、ばかばかしい報復合戦に性懲りも無く、さらに、戦争をはじめるというのですから。こんな野蛮な政治家どもに引退を勧めたい程です。
 しかし、何故、世界の政治家たちは謝罪とゆるしを声に出さないのでしょうか。
 9・11のテロの犠牲者にも報復は望まない、と言う人もいるのに。
 イエスを救い主として信じる私たちは、イエスのゆるしに生かされている故に、ゆるすことを求められています。ゆるしに立って、他者と世界の和解のための道具になりましょう。

今週の一句

「秋雨や 大根の種の もらい水」

―もとゐ―


 2002年9月22日() 年間第25主日

 マタイによる福音書20章1〜16節


20:01「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:02主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:03また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:04『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:05それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:06五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:07彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:08夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:09そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 ゆるし続けよう、とイエスは私たちを招きます。
 神のゆるしは、相手への深い憐れみ、共感に基づいています。ギリシャ語ではスプラングニッゾォマイ(腸のちぎれる思い)が使われています。それは、イエスが病人、飢えた人への共感を表す言葉です。莫大な借金を返済できない僕にも主人は深く憐れまれて、ゆるしたとあります。
 今日の、ぶどう園の主人も、夕方遅くまで誰からも雇われず立ち尽くしていた者らを雇い、朝一番で雇った人たちと同一賃金を払ったのは、前者への深い憐れみがあったからと想像するのは間違いではないと思う。彼らへの共感があるからこそ、気前よく支払えるのでしょう。
 しかし、後者たちは共感をもたず、ただ単なる、敗者、雇われなかった者としてか見なかったのです。自分たちは雇われた優秀者で、前者は駄目な者だから相応な扱い、自分たちより低い賃金しか受けられないのだと。現代の競争社会では彼らの考えは支持されるでしょう。
 ところが、天の国、神の国ではそうではないのです。賃金は神様の気前良さ、憐れみから与えられるのです。神はこの世で弾き飛ばされる弱い人々に共感されるのです。  私たちも恵まれた職、地位、才能を弱い人々と分かち合うために用いましょう。

今週の一句

「出勤の 扉開ければ 中秋の月」

―もとゐ―


 2002年9月29日() 年間第26主日

 マタイによる福音書21章28〜32節


21:28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 小さき者と共感しよう、とイエスは招いています。
 洗礼者ヨハネやイエスの呼びかけは、人間の本来の姿(神を愛し、人に仕える)への目覚めです。それ故、非人間的状況下にある人たちに現状の打破、変革への希望と勇気を与えます。病気からの癒し、差別からの解放を願う者らに一歩を踏み出させ、また、疲れた人々にはいこいを与えるのです。
 他方、強者、つまり、地位や職業を持つ人たちは、それが為に、非人間的状況に縛られそれを失うまいと、守りに徹し、イエスらの呼び声には心動かされながらも、無視、あるいは弾圧さへするのです。当時のユダヤ教指導者らがそうでした。
 しかし、イエスは兄弟のたとえを使い、彼らに考え直すことが神の望みであることを教えたのです。
 私たちもイエスの声に従えるよう、持ち物を軽くしましょう。


戻る