ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「まっすぐに 田植え終えけり 山の里」

―もとゐ―


 2002年6月2日() キリストの聖体

 ヨハネによる福音書 6章51〜58節


06:51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
06:52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
06:53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
06:54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
06:55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
06:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
06:57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
06:58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 道に迷ったとき、ミサにおいて神の愛に出会うよう教会はわたしたちを招いています。
 さて、イエスは神の国の始まりを告げ、その完成に私たちを招かれます。その道中はユダヤの民がモーセに引きつられエジプトを脱出し、乳と蜜の流れる地へ行った「荒野の旅」を思い出されます。なぜならば、彼らの頼るべきものは神しかなかったからです。道先の案内、敵からの防衛、道中の水や食糧、宿泊地、何一つ、彼らの自力にては得られなかったのです。神は幾たびも、彼らに呼びかけました。「私の命じる戒めを守るなら命を得、幸いを得る。」(申命記)
 にもかかわらず、再三、彼らは目先の利益に捕われて神に背き、他の神々に頼りました。そして、彼らは目的の地に着くことはできなかったのでした。
 イエスに呼ばれて神の国の宣教に従うようになった私たちにとって神の言葉は今や、ミサにおけるイエスとの出会いと交わりです。イエスの体と血を食することはそのシンボル的な行為なのです。
 さあ、イエスとの出会いに十分養われた私たちは神の国の完成へ進みましょう。

今週の一句

「雨来ぬと 夜空のこだま 蛙泣く」

―もとゐ―


 2002年6月9日() 年間第10主日

 マタイによる福音書9章9〜13節


09:09イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
09:10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
09:11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
09:12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
09:13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 一緒に歩こうと、イエスは私たちを神の国に招きます。
 マタイは座っていました。仕事に疲れたのでしょうか。それとも、収税人ということで悪人呼ばわりされ、ユダヤの神殿や社会から排除され、誰一人自分に近づかないことに落胆、嘆息していたのでしょうか。こんな仕事やだな、やめて別の仕事をしたい、でも、他にやれることはないし、やめたら、明日から食うことも出来やしなくなる、乞食になるしかない、どうしよう、…。彼は、何年も考えながら、意気地なしで無力な自分に諦めて座っていたのでしょう。座っている限り、何も事は起きません。そんなマタイにイエスは近づき声をかけられました。
 「わたしについて来なさい。」
 私たちの人生は外側からのきっかけが転になるのです。イエスの呼びかけがマタイの心に触れたのでしょう。マタイは立ちあがりました。イエスに答えたのです。イエスとマタイの対話が始まったのです。福音とは対話なのです。マタイはイエスとの対話において、自分が変えられ、生命さへ与える人になったのです。

 さあ、私たちも立ちあがりましょう。

今週の一句

「初植えの キューリしおれつ 梅雨を待つ」

―もとゐ―


 2002年6月16日() 年間第11主日

 マタイによる福音書9章36〜10章8節


09:36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
09:37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
09:38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
10:01イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
10:02十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10:03フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
10:04熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
10:05イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
10:06むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
10:07行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
10:08病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 私に従え、とイエスは私たちを招いています。
 イエスの目線にはいつも疲れ果てた名も無き人々がいます。波のように押し寄せてくる彼・彼女らを見つめるイエスの心には憐れみがあふれてきます。ほってはおけない、何とかしたい。でも、その圧倒的現実に「おお、神よ!」と叫んだにちがいないでしょう。どうしようもない現実にぶちあたったとき、人はおのれの無力にさめざめと泣くしかありません。そして、その現実に背を向けるのではないでしょうか。
 しかし、イエスは立ち向かうのでした。なぜならば、神が共におられるからです。イエスの派遣される弟子たちも同じです。人間的には優れた能力、知恵がなくても、神の愛、力が彼らを宣教させる、とイエスは確信していたのです。
 イエスは私たちを必要としているのです。さあ、応えましょう。苦難の人々と共に歩みましょう。

今週の一句

「薄明かり 虫に挨拶 夏の朝」

―もとゐ―


 2002年6月23日() 年間第12主日

 マタイによる福音書10章26〜33節


10:26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
10:27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
10:28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
10:30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
10:31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
10:32「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
10:33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 イエスと共に宣教の道を歩もう
 イエスの宣教は神のこの世への愛を表すことであり、同時に、この世の神への罪を明らかにすることなのです。罪人を招き、病人を癒すイエスの姿は彼.彼女たちにとって神の愛に触れることなのですが、彼・彼女たちを断罪し、交わりを断っていたユダヤ教指導層、更に、現在の教会にはその間違いを明らかにされる辛いことなのでした。当然、後者らはイエスやその弟子らを目障りとし、迫害したのでした。しかし、そのような妨害にもかかわらず、神の愛を覆うことはできなかったのです。弟子の声、伝承、福音書をとおして、今なお、私たちは神の愛を証しする人々出会えるのです。
 出会った私たちは隠したり誤魔化したりせずに、人々に、後世に伝える義務があるのではないでしょうか。

今週の一句

「待ちわびた 梅雨に背伸びの 草も実も」

―もとゐ―


 2002年6月30日() 年間第13主日

 マタイによる福音書10章37〜42節


10:37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10:38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10:39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
10:40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
10:41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
10:42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 神は私たちを雀より気にかけていてくださる、とイエスは伝えられました。
 神の配慮のもとに生きることは、互いに生かし合うことです。それは、互いを尊重し、喜んで奉仕することなのです。しかし、私たちが利己的に生きるとき、他者への尊敬を忘れ、支配し自由を奪ってしまいます。男性と女性、夫と妻、親と子の関係においてもそれが見られます。私たちは夫婦、家族、地域という大義名分のもとどれだけ多くの人々を泣かせ、傷つけたことでしょう。親の幸せのため子供を自分たちのいいなりに育ててこなかったでしょうか。また、社会や国家もその利益を守るため弱者を切り捨ててこなかったでしょうか。
 イエスは互いを生かし合うことを優先しました。彼の目の前の羊飼いのいない群衆は利己的社会や家族の犠牲者だったのです。
 神に生かされた私たちは人々を犠牲にする関係から、互いを生かし合う関係に脱皮しましょう。


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