ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「君が髪 被りしヴェール つつじ色」

―もとゐ―


 2002年5月5日() 復活節第六主日

 ヨハネによる福音書 14章15〜21節


14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 私の門を通り、私の道を歩めとイエスは私たちに呼びかけます。
 私たちは誰でも生きるにあたって何かを支えとします。例えば、現代世界は「金」をその原動力としています。何を決めるにおいても利益優先なのです。しかし、そこにおいては、人間の命は金よりも低いのです。
 同じように、内憂外患にあったヨハネ福音書の背景の初期キリスト教団は自分達を支えるものを絶えず吟味していました。イエスの道に続くにあたって、様々な憶測や謬見と闘わなければならなかったでしょう。彼らは生前のイエスへの想起から、弁護者である聖霊を通して、自分らを見捨てないこと、いつも、共に居て、働いておられることを信じていたのです。
 ヨハネの教団は「金」にではなく、イエスに生の根拠を置きました。それは争いを止め、互いに愛し合う道を生きるためなのでした。
 私たちも同じ道を聖霊の働きにより歩みましょう。

今週の一句

「父逝く日 孫の制服 眩しけり」

―もとゐ―


 2002年5月19日() 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書 20章19〜23節


20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 イエスを主とする世界に生きなさいと、私たちは招かれています。
 今日のわたしたちの世界は混沌としています。個人においても世界においても、権力や富を巡って混乱と争いが絶えません。最近の、中国にある日本領事館での亡命者の事件は国益が人権よりも勝っていることを示しています。これらの争いには必ず武力が使われ、連鎖となり泥沼化して行きます。日本の有事方も愚行を繰り返そうとしています。
 さて、神が世界創造の時、地は混沌であり、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の上を動いていた、とあります。そして、神が光と闇を分け、その後の創造の働きを続けています。その際、神は力ではなく言葉を発して光を呼び出しました。即ち、神の霊は神と混沌、闇との交わる場、コミュニケーションの空間なのです。

 今、復活したイエスと弟子たちが語りあえる場、対話の場にも聖霊があります。イエスが聖霊を受けよと弟子たちに語り、弟子たちは聖霊において復活のイエスに出会い、答えることができるのです。
 聖霊を吹き入れられた私たちは力によるのではなく、他を受け容れ、尊重し、対話によって新しい世界を造って行きましょう。

今週の一句

「人絶えて ツバメ飛び交う 商店街」

―もとゐ―


 2002年5月26日() 三位一体の主日

 ヨハネによる福音書 3章16〜18節


03:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
03:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
03:18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 聖霊において神と出会い、人に奉仕するようイエスは呼びかけています。
 神の人間への限りない愛がイエスの生と死において示されている、とのヨハネの福音は私たちに生きる意味と目的を与えてくれます。もし、この「根元語」とも言うべきことが贈られなければ、この現世において私たちの生は無意味にただ流されて行くものになるでしょう。この信仰宣言を掲げたヨハネ教団にとってはイエスへの信仰が何をもたらし彼らをどこへ連れて行くのかが絶えざる問題となっていたのでしょう。
 神がイエスにおいて私たちを愛していること、これは、キリスト教の陳腐な常套語ではありません。それは、私たちを生かし、私たちを変える神からの語りかけの言葉なのです。イエスは言います。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハネ14・12)
 神の愛に気付いた時、自分中心の生から、イエスの他者と共に生きる生に連なれるのです。
 しかし、弱さから、利己的在り方にすぐもどってしまうのが私たちですが、耳を傾ける時、特に、ミサにおいて神は語りかけて来るのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」


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