ももちゃんの一分間説教

今週の一句

「如月や 夕日に染まる 小牧山」

―もとゐ―

2002年2月3日() 年間第4主日 マタイ5:1〜12



5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 イエスは私たちに神の国は、「小さくされた人々」のところにある、と指差します。イエスは弟子たちに、神の国に招かれている人がどんな人であるかを語られました。それは、自己の知識や信仰、権力に頼るユダヤ教指導者たちではなく、イエスに象徴される人々でした。イエスは名もなく貧しく、教養のない、いわば、底辺の人でした。しかし、神への信頼に生き、神の恵みによって、同じような境遇の人に出会えば、悲しみ、憤り、手当てし、骨身を惜しみませんでした。また、差別や不正をする者には厳しく批判しました。そして、遂には、犯罪者として極刑に処せられたのでした。
 現代の日本においても、この世のからは幸いでないと見なされている人々が多様にいます。しかし、そこにこそイエスがおられ、幸いを宣言しています。私たちも出かけて行き、その祝福に預からせていただきましょう。

今週の一句

「節分や 心の闇を 追い払い」

―もとゐ―

2002年2月10日() 年間第5主日 マタイ5:13〜16



5:13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

イエスの幸いへの呼びかけに預かれと私たちは呼ばれています。
イエスは「光」である。(参照。マタイ、ヨハネ福音書)創世記の初めに、神が光を創造し、この世界を光と闇に分けた、とある。ヨハネは闇に閉ざされている人類を救うために神が光であるイエスを遣わした、と書いている。ということは、人類は誕生以来、闇に覆われて来たのだ。マタイ福音書の時代には、人々は旧態たるユダヤ教とローマ帝国の軍事支配下に生きる希望が失われていた。2000年後の我々の時代は、テロ、紛争、貧困の出口の見えないトンネルに閉じ込められている。
しかし、どの暗黒の時代においても、光は輝きを放っていた。マタイはそれをイエスに見出だし、また、イエスの祝福する人々にも見つけていた。
私たちも、今また、確信する。イエスこそ光であると。
 私たちはイエスによって光に招かれた。その招きに応え、光を証しして行きましょう。

今週の一句

「曙や 光る氷の 通勤路」

―もとゐ―

2002年2月17日() 四旬節第1主日 マタイ4:1〜11



4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4:10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
4:11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 光であるイエスを証しするよう、私たちは呼ばれています。
 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、荒れ野に行かれた。(参照マタイ4・1)私たちの日々は忘却していれば、通り過ぎて行きます。しかし、意識すると躓いたり、衝突したりして、結構、しんどいものとなります。イエスの生涯は敢然とこの世界の荒波に向かって行くものでした。
 私たちがこの世と闘うときの武器は、自分の意志、知恵、体力、と言ったものでしょう。そして、自分の力にあまると、後退や諦めたりするのです。しかし、イエスの武器はそうではありません。彼が頼ったのは神でありました。しかも、彼は自分に都合の良いように神の助けを借りたのではありません。神が神であることを、即ち、ご利益的宗教の神を証しするのではなく、神のこの世の主権を身を持って示したのです。同時に、人間とは何であるかを明らかにしたのです。
 私たちが生きるにあたって神を忘れて悪魔の誘い、うまい話しにのるとき、混乱し争いが生まれるのです。イエスには動揺はありません。何故なら、神の守りがあったからです。
 「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ4・1)とあるようにです。
 私たちも迷わず神のみ旨に生きて行きましょう。

今週の一句

「春風や 地突き破りて 出づ花芽」

―もとゐ―

2002年2月24日() 四旬節第2主日 マタイ17:1〜9



17:1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17:3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17:4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17:5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17:6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17:7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17:8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17:9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

神のみ言葉に生きるよう、イエスは私たちを招いています。
イエスは悪魔と対峙しました。その彼に一貫していたことは、自己の栄達ではなく、神への従順でした。
私たちの人生も、自己のものではありません。それは、神から託されたのであり、それは、人々に仕えるためなのでした。今、話題の国会議員は国民の生命財産を守るためにではなく、自己の利益、権力を肥やすためにその職を行っているために批判されているのです。
ペトロたちのイエスへの信従は、本来、「人間[を捕る]漁師」※に招かれたのであり、自己の栄光のためではなかったのです。しかし、ペトロらは何時の間にかそれを忘れ、自己の栄光を手に入れようと思うのでした。神のみ声にではなく内なる自分に従おうとしたのです。そんな彼らに神は「イエスに聞け」と声をかけました。
私たちの毎日も楽に流れたり、目先に捕われたりしますが、神の声を聴くことを忘れないようにしましょう。
※岩波版新約聖書「マタイ」


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