ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 夜明け前 買い物歩く 大晦日 」
―もとゐ―


2002年1月1日(火) 神の母聖マリア ルカ 2:16〜21


2:16
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18
聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2:21
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 神の計らいについて行くよう、イエスは私たちを招いています。
 受胎からベツレヘムへの旅と出産、そして、羊飼い達の訪問、マリアにとってこ の間はどれ一つ思いがけない事の連続だったに違いありません。いくら信仰篤い マリアではあっても、事の展開に戸惑っていたのでしょう。
 過ぎる2001年は、私たちにとっても困惑な年になりました。たとえば、米国の同 時多発テロとアフガンへの戦争、パレスチナでのイスラエルとアラブの戦争、年 末にはインドとパキスタンとの戦争直前と、なんと多くの無駄な血が流れまし た。これを神の計らいと思うならば、神を呪わざるを得ません。
 マリアは戸惑いのうちにも「思い巡らして」いました。彼女の胸中には様々に渦 巻いていたことでしょう。幼子イエスの行く末とか、自分らの生活とか。しか し、彼女は神の計らいに従って行きました。「お言葉どおりこの身になりますよ うに」は、まさに、このマリアの姿に他なりません。人間的知恵で分かろうとす るのではありません、神の知恵に思い巡らし、生きることであります。
 私たちも現実の諸相に呆然とすることなく、神の計画を思い巡らし、神に従って 行きましょう。

今週の一句
「 大雪や 仕事始めの 止まる足 」
―もとゐ―


2002年1月6日() 主の公現 マタイ 2:1〜12


2: 1
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2: 2
言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2: 3
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2: 4
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2: 5
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2: 6
『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2: 7
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2: 8
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2: 9
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 歴史を越えて居ます神を信じて歩みなさいとイエスは私たちに呼びかけていま す。
 真実は為政者が造り出し利用する。ブッシュ大統領は反テロの戦いと正義を強調 しながら、米国のテロ政策とは戦わない。小泉首相は改革と威勢良く主張してい るが、弱者切り捨てを隠蔽している。
 へロデ王はメシア誕生をないものにしようとした。彼はそのため宗教家や学者た ちを囲い込んでいた。つまり、情報操作するためにであった。しかし、そのへロ デの陰謀はへロデを恐れない他国の人々によって破られた。彼らは人に従うので はなく神に従ったからである。
 弱者との連帯を望む私たちは、この世の真実や正義を越えるイエスの真実に出会 い、従って行きましょう。

今週の一句
「 白い息 木の芽膨らみ 成人の日 」
―もとゐ―


2002年1月13日() 主の洗礼 マタイ 3:13〜17


3:13
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 東方の三人の占星術師はへロデにではなく、神に従いました。同じく、イエスの両親も神の導きに委ねました。
 イエスの宣教師としての出発、いわば、独り立ちは「水による洗礼」、即ち、聖 霊を受けてからでした。イエスは言いました「今は、止めないでほしい。正しい ことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」神に従うことは、人間の 知恵や力ですることではありません。神の力を頂くことから始まるのです。イエ スは受洗後、荒野での悪魔との闘い、つまり、この世での闘いに出かけて行きま した。何故なら、イエスは神の力、聖霊の力を体中に充満させたからでした。
 私たちは、日曜毎、洗礼を受け,キリストの体に養われそのエネルギーに満た されています。それは、神の国を告げるためなのです。

今週の一句
「大寒や 伸びた枝先 バラ一輪」
―もとゐ―


2002年1月20日()  年間第2主日  ヨハネ 1:29〜34


1:29
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1:30
『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1:31
わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1:32
そしてヨハネは証しした。「わたしは”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1:33
わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34
わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 イエスの生涯は神の呼びかけに聖霊によって聴き従ったものでした。洗礼者ヨハネもイエスを証しする者と言う、神からの召し出しに身を低くして答えました。へロデ王が救い主イエスの誕生を人々に知らせる役割を果たしていたら、神から祝福されたことでしょう。しかし、彼は自分に驕り、神をコントロールする者になろうとしたため祝福は与えられませんでした。ユダヤ教指導者たちも同様だったのです。
 この世はヘロデのように虚偽と武力によって自分を誇ろうとするばかりですから私たちや教会も自己の宣伝のためではなく、イエスをこの世に証しする神からの使命に謙虚に仕えたいものです。

今週の一句
「大寒や 寒暖一度差に 一喜一憂」

―もとゐ―

2002年1月27日() 
年間第3主日 マタイ4:12〜17



4:12
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:13
そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4:14
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4:15
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
4:16
暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4:17
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 イエスの証し人になれと、神は私たちを招かれています。洗礼者ヨハネはユダヤの荒野で回心を呼びかけました。それは、イエスへの道備えとなりました。ヨハネがヘロデに捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の始まりを告げ知らせました。ガリラヤは辺境の地で、ユダヤ教指導者たちからは汚れた地、異邦人の地と呼ばれ蔑まれていました。イエスの喜びの訪れが、この地から発せられたのはとても興味をそそられます。
 日本でいえば東京という政治文化の中心地であり、情報の巨大発信基地である大都会からではなく、過疎高齢化の寒村地からイエスは呼びかけられたのです。ガリラヤも日本の寒村地も、権力者たちがその富や人を奪い、役にたたないとなれば見捨てて行く、時の政治や経済に翻弄される地なのです。これまでのアフガンも同様でした。外国の思惑に、人々の生命は虫けらのように扱われてきたのです。
 イエスはそこに「神の国は近づいた」と宣言したのです。
 「神の国」は、人間が人間を物として扱うそこにあるのです。即ち、「小さくされた人々」と神はおられる、のです。
 私たちは、イエスを証しする者としてその神の真意を聞き取りましょう。


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