ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 川の字に 寝そべる猫の 夏の午後 」
―もとゐ―


2001年8月5日() 年間第18主日 ルカ 12:13〜21


12:13
群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17
金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18
やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19
こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 神のゆるしのもとに人々に仕えなさい、とイエスは私たちを招いています。
 イエスの神の国は、私たちを思い煩いから解放してくださいます。弟子たちの宣教派遣にあたって、イエスは何も持つなと言われました。良きサマリア人の譬えにおいては、自分のことで心が一杯であった祭司やレビ人に対し、旅商人であるサマリア人は自分のことで思い煩いませんでした。マルタとマリアの話しではマルタはイエスの世話に思い煩っていました。一方、マリアはイエスの前にじっと座っていました。イエスの教えられた「主の祈り」では、第一に神の国を求めており、日毎の糧も今日一日分を求めているに過ぎません。また、イエスは食べること着ることに思い煩うな、まず神の国を求めなさい、と語っています。
 このように、イエスは神の国に生きることは、この世の思い煩いから解放され、人々に仕えて行くことだと、語っているのです。従って、金持ちは明日のことを思い煩って富を倉に仕舞い込むのではなく、恵まれない人々に分かち合うべきだったのです。
 私たちも、このイエスの福音に固く立ち、戴いたものを人々にお返しして行きましょう。

今週の一句
「 雷鳴や 渇ききる地に 涙する 」
―もとゐ―


2001年8月12日() 第19主日 ルカ 12:32〜48


12:32
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33
自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34
あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12:35
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12:36
主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12:37
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12:38
主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12:39
このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12:40
あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12:41
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12:42
主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれだろうか。
12:43
主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12:44
確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12:45
しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12:46
その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12:47
主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12:48
しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 イエスは私たちに思い煩うなと呼びかけています。
 所有するな、思い煩うな、ゆるしなさい、というイエスの招きは、私たちがその存在の根拠を神におきなさいとの謂いなのです。私たちが神との正しい関係に生きる時、すべてが神から備えられるのです。今日の忠実な僕のたとえは、まさに、私たちが僕として神のみ心に応えているならば、何も恐れることはないのです。しかし、あの金持ちのように、神に応えるのではなく己の欲望に従ったとき幸いは与えられないのです。
 平和と愛を望まれる神に従う私たちは、小泉首相の靖国参拝、即ち、侵略戦争の正当化、忠君愛国の美化、他者の痛みへの無視に対して、怒り、批判することが求められています。

今週の一句
「 照りつけし 天地吸いし ざくろの実 」
―もとゐ―


2001年8月19日() 年間第20主日 ルカ 12:49〜53


12:49
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12:50
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12:51
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12:52
今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12:53
父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」

 神のみに忠実であれ、とイエスは私たちに呼びかけています。
 小泉首相は公約を翻し、8月13日に靖国神社を参拝しました。あるギャグには首相は二枚舌ならぬ二つ耳と揶揄されていました。イエスの言葉に聴き従い、神に忠実であろうとすると、ときには、親、兄弟姉妹、夫、妻と分裂し敵対することにもなる。イエスが彼の兄弟から悪霊に取りつかれている、と言われたり、同胞のユダヤ人たちから神を冒涜している、と糾弾されたように。
 日本社会では、和を以って尊し、を美徳としている。これは、ときには、長いものにはまかれろとか、出る釘は打たれる、のように、真理や正義を覆い隠してしまうことになる。小泉さんは、ある勢力と和になることにより保身はできたけれど、多くの人々の心を痛めてしまった。
 イエスは平和、つまり、愛とゆるしの神の国をもたらそうとした。その点におい て、イエスは妥協しなかった。
 私たちがイエスに従うとき、真理を捻じ曲げないようにしよう。

今週の一句
「 耳凝らし 台風通過 独り居り 」
―もとゐ―


2001年8月26日() 年間第21主日 ルカ 13:22〜30


13:22
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13:23
すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13:24
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13:25
家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13:26
そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13:27
しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13:28
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13:29
そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13:30
そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 イエスは神にのみ忠実であれと私たちに呼びかけています。
 イエス時代のユダヤ教指導者たち、ファリサイ派や律法学者たちは、神に忠実であると公言しながらも、それは、愛とゆるしのともなわない個人主義的、閉鎖的なものでした。安息日に会堂で礼拝を守りながら、病に苦しむ者には彼らの手を差し伸べなかったのです。
 彼らは偶像を作り上げそれに仕えていたのでした。
 そんな、彼らを横に、イエスは弟子たちに狭い戸口から入れと呼びかけるのです。それは、自己義認の傲慢な道ではなく愛とゆるしの神にのみ忠実でありなさい、即ち、恐れおののきながら神と隣人に仕えなさいということです。なぜなら、神が無資格な私たちを一方的にあわれみ、神の国の宴に招いてくださるからです。
 私たちは愛されていることゆるされていることをつい忘れて、自分の力で生きていると思い傲慢になり他者を裁き、排除してしまいがちです。
 イエスは十字架という本当に狭い戸口を通って行きました。徹底して、自分を神に明渡し神に仕えたのでした。
 わたしたちはこのイエスの跡を辿って行きましょう。愛とゆるしに支えられながら。


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