ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 新任地 聖霊降りて 青い空 」
―もとゐ―


2001年6月3日() 聖霊降臨の主日 ヨハネ 14:15〜16、23〜26


14:15
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:23
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24
わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 私に忠実であれ、とイエスは私たちに呼びかけています。
 イエスの死後60年から70年たったヨハネの教会では、その内憂外患にあって、彼らを支え続けてきたものは、イエスとの深い一致でした。彼らはイエスの言葉と行いの想起によって、今、ここに、現存するイエスと交わり、力を戴き、宣教したのです。彼らは、それを聖霊の働きと呼んだのでした。聖霊は、弁護者、真理の霊、と呼ばれ、また、ゆるしの力である、とも呼ばれている。
(「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」ヨハネ 20:22〜23)
 それは、まさに、イエスの言い換えと言える。地上にはいられないイエスを彼らは何故いると感じたのだろうか。それは、彼らがイエスの「気」を感じたのではないか。「気」は、命、息、息吹き、空気、風、気力、パワー、エネルギー、癒し、気分、として、それを吸い、触れるとき、癒され甦り動かされるのではないか。イエスの時空を突き抜ける圧倒的人間への愛という「気」が、彼らを孤児としなかったのだ。
 私たちも、このイエスの気に触れて、困難に直面する現代世界に希望を拓く者となりましょう。

今週の一句
「 つばめの子 巣立ちの朝は 梅雨晴れ間 」
―もとゐ―


2001年6月10日() 三位一体の主日 ヨハネ 16:12〜15


14:15
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:23
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24
わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 イエスの気迫はこの世を救うのだと、私たちに迫ってきます。
 また、惨劇がありました。この世には悪霊の仕業としか思われないことが度々行われます。悲劇に直面した人々にイエスは何を語られるのでしょうか。
 イエスは私の名によって神に願いなさい、と語られます。(ヨハネ 16・23〜24)私たちが、イエスに祈るとき、イエスは生ける者として私たちの傍らに立っています。しかも、十字架上で苦しみ悶えている姿でイエスは私たちに語りかけています。と同時に、神はその十字架上のイエスと共に苦しんでいます。そして、神は聖霊を通して愛のメッセージを伝えてくれるのです。苦しむ者と共にイエスは苦しみ、神は苦しんでくださるのです。
 私たちは、悲しみにある人々の傍らにいられるようイエスに願いましょう。

今週の一句
「 中仙道 かの人我も 梅雨煙る 」
―もとゐ―


2001年6月17日() キリストの聖体 ルカ 9:11〜17


9:11
群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
9:12
日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
9:13
しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
9:14
というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9:15
弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9:16
すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9:17
すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった。

 悲しむ者と共におられるイエスのもとへ私たちは招かれています。
 イエスの伝える神の国は超越的なものではありません。人と人の間に建てられるものです。
 病人を癒されるところに、食卓を共に囲むところに、疲れた者に腰掛を差し出すところに、傷つき悲しむ者のそばにいるところに神の国があるのです。
 佐藤研さんは、イエスの神の国とは「人間の自己壊滅からの回復、新生が根幹にある。」と述べています。※
 イエスの前に空腹で今にも倒れそうな貧しい人々が溢れていました。イエスにとって彼らを「俺にはこんなに大勢の人を食わせる力はない」からとほって置くことはできませんでした。自己壊滅の人々になんとか力になりたい、という思いしか彼にはなかったのでしょう。彼に出来る事はただただ彼らといっしょにいることだけでした。そこに神が働かれたのです。パンを待つより、イエスも群衆もめいめい工夫して集めて来た食料を分け合ったのでしょう。
 イエスは力も金もない無力でした。しかし、そこから逃げ出すのではなく身を置いたのです、十字架の上に。ミサにおられるイエスも同じです。私たちと共におられるのです。
 キリストの体を食して、私たちは苦難にある人々の傍に行きましょう。
 ※ 佐藤 研著『悲劇と福音』清水書院 2001

今週の一句
「 梅雨の朝 戸を開けみれば 百合の群れ 」
―もとゐ―


2001年6月24日() 洗礼者聖ヨハネの誕生 ルカ 1:57〜66、80


1:57
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
1:58
近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
1:59
八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
1:60
ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
1:61
しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
1:62
父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
1:63
父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
1:64
すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
1:65
近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
1:66
聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
1:80
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 苦難にある人々にご自分を差し出されるイエスはわたしたちにも分かち合うよう呼びかけています。
 神が自己壊滅にある人間を救おうという思いは、神お一人では実現しません。人間との協働が必要なのであります。イエスの先駆者と呼ばれる洗礼者ヨハネの誕生、また、イエスの誕生の話しは、共に、神の呼びかけに応える人について明らかにしています。
 私たち人の一生は、個々の人の思いを越えたもの、聖書的には神のみ旨に繋がっているとき、途中、何があっても、目的、希望を忘れることはないでしょう。ヨハネの両親は、子どもへの人間的思い、跡を継ぐとか、老後の楽しみとか、を捨てて、神の呼びかけに応えたのです。しかし、それが、彼らの生きる目的になったのです。
 小学生を何人も殺害した容疑者Tの人生はどうだったでしょうか。マスコミはみたされなかった欲求不満の彼の人生を報告していますが、人生の真の喜び、生きがいを彼に知る機会がなかったのではないでしょうか。小泉流政治経済の改革ばかりが叫ばれていますが、人生を見失っている若者たちを勇気づけ、献身できるように大人の心の改革をすることがキリストの教会に求められているのです。


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