ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 エコー検査 八十八夜の 白き台 」
―もとゐ―


2001年5月6日() 復活節第4主日 ヨハネ 10:27〜30


10:27
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29
わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30
わたしと父とは一つである。」

 日々、イエスの声を聴きなさい、と私たちは招かれています。
 「改革」を叫んで小泉氏は首相になった。その叫び声は、自民党員や国民の今のままでは先が見えないという思いと合致し小泉氏を首相にした。しかし、小泉首相の「改革」は痛みのともなうものであり、憲法改正など、右傾化の怪しいものであることが次第に明らかになって来た。戦後以来の日本の歴史のなかでも、痛みのともなう改革の美名の下で、犠牲となって来た人々はいつも弱い立場の者であったことを忘れてはならない。産業構造改革によって離職し、日雇いなどの不安定労働者となり、ついにはホームレスとなった人々など、また、女性、高齢者、障害者、がそうである。誰かに痛みを押し付けて、自分の利益を守る政官財の代表者が小泉首相になるかもしれないのだ。
 小泉首相に較べイエスの声は小さい。が、格好だけではない。聞き分けることが必要だ。イエスは私たちのために命を捨てる、と言う。(ヨハネ 10:11、17)犠牲になれ、とではなく犠牲になる、と言うのだ。
 イエスからいただいたこの命、誰かの役に立ちたいものだ。

今週の一句
「 代掻きの 棒たぐる手の 深き皺 」
―もとゐ―


2001年5月13日() 復活節第5主日 ヨハネ 13:31〜35


13:30
ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
13:31
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 私の声を聞き分けなさい、とイエスは私たちを招ています。
 イエスの栄光、イエスを遣わされた神の栄光とは彼を信じる者に永遠の生命を与えることです。
 さて、私たちの安心立命はどこにあるでしょうか。地位、富、名誉にでしょうか。しかし、それらは移ろいやすいくはかないものです。人々は、飽くことなくそれらを求め続けるのです。最近、連続している凶悪犯罪はいづれも自己の欲望を満たすためです。
 他方、イエスの与える永遠の生命は、飢えも、渇きもしないのです。(参照:ヨハネ 6:34〜40)それは、神の慈愛なのです。私たちが神の慈愛に深く根をおろしているとき自己は揺るがない安心立命にあるのです。あの小さな体のマザーテレサを生かし、働かせたのは、この神との交流にあったのです。
 イエスはこの神の慈愛をわたしたちへの愛によって与えてくださいました。私たちもまた互いを愛し、ゆるし合うことによって、この世の人々に変わらぬ安心立命を証ししましょう。

今週の一句
「 いにしえの 田毎の月よ 今減反 」
―もとゐ―


2001年5月20日() 復活節第6主日 ヨハネ 14:23〜29


14:23
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24
わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28
『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29
事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

 自分のことばを思い起こすようにと、イエスは私たちに語りかけます。
 ヨハネ福音書が書かれた時代には、キリスト教会はそれまでユダヤ教の一部と見なされていたのですが、神殿崩壊後、排斥され呪われるようになりました。従って、キリスト教会は自己のアイデンティーをますます深くイエスとの交わりに求めました。それが、聖霊による思い起こすということです。
 さて、イエスは確かに神と人との間にご自分を立て人に平和をもたらしました。しかし、現実にはユダヤ教側からの迫害により敵意、憎悪の渦中にありました。キリスト教会はこの事態をどのように受けとめたのでしょうか。
 それは、イエスの行いとことばを聖霊による想起によって理解したのです。即ち、イエスのもたらした平和、つまり、神のゆるしに根ざして生きることは、この世的生き方「持つ」生き方から「ある」生き方へ方向転換することであり、それは、この世から憎まれることであること、と認めたのでした。
 今、私たちはきリスト者であるという理由からこの世の迫害を受けることはありません。なぜなら、この世とは別の生き方をしているわけではなく、むしろ、全く同じあり方をしているので、この世からは何とも思われていないのです。
 私たちは、見せかけの平和にではなく、イエスの平和に生きるため、イエスのことばを思い起こしましょう。

今週の一句
「 蛙鳴き 淡き思いに 渇き街 」
―もとゐ―


2001年5月27日() 主の昇天 ルカ 24:46〜53


14:23
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24
わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28
『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29
事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

 私の与える平和に生きよ、とイエスは私たちに呼びかけています。
 イエスの昇天は、フィリピの信徒への手紙の「キリスト賛歌」にあるように、イエスが神によって天地万物一切の主になった、という信仰の表現です。もちろん、それは、イエスが十字架の死よりへの復活信仰がベースです。従って、そのイエスにパウロ的信仰の意味の「忠実であること」の私たちは、イエスが主である世界に生きる住人なのです。その世界は、神の慈愛に貫かれ人々は友愛に生きられるのです。
 しかし、現実は、金の支配する世界で妬みと争いに人々は生きているのです。ハンセン氏病者の訴えがやっと認められ、強制隔離を続けた国と国会は謝罪したのでした。けれども、その国を支持してきた私たち国民にも責任はないでしょうか。同じ社会に、一方では隔離され非人間的状況に生きていた人々のいたことすら私たちは知らなかったのではないでしょうか。彼らの他にも、日本では差別と偏見の苦難に生きている人々のことを私たちはどれだけ覚えているでしょうか。
 天にいるイエスに忠実であろうとする私たちはこの世の悪を取り除く働きをし、 すべての人と食卓を共にするようにしましょう。


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