ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 立春や 野良ねこたちの 昼寝かな 」
―もとゐ―


2001年2月4日() 年間第5主日 ルカ 5:1〜11


5:1
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5:2
イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3
そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5:4
話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5:6
そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7
そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
5:8
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
5:9
とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5:10
シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
5:11
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 イエスは私たちを福音宣教に遣わされます。
 私たちの日常的営みは糧を得るためだけなのでしょうか。もちろん、それは生きる上での必須であり、簡単には得られない尊い働きであるのだけれど、人生がパンのみであるのは、ひろさちやさんの言うように「おいしいものが食べたい」奴隷的欲望を満たすだけであって、空しい気がする。そうした日々に追われた生活をする私たちが、電車に轢かれそうになった人を助けるため飛び込んで、自らの生命も失った人のことを聴くと、羨ましさと自分の情けなさに胸が引き裂かれそうになるのは、生が食い物だけではないことに気づいているからではないでしょうか。
 イエスがペトロに網を降ろしなさい、と言われたのはそういうことなのです。私たちの日々の働きはパンを得ることと同時に神の国の宣教につながっているのです。しかも、それは空しさに終わるのではなく、主の恵みの年が実現されるのです。
 さあ、今日の仕事が貧しい人に福音を伝えるものになるよう励みましょう。

今週の一句
「 折れそうな 水仙一輪 春立ちぬ 」
―もとゐ―


2001年2月11日() 年間第6主日 ルカ 6:17、20〜26


6:17
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
6:20
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
6:21
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
6:22
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23
その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:24
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
6:25
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:26
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 私たちの日常の営みが神の国の宣教に向かうよう、イエスは呼びかけています。
 富んでいる者は、禍だ。確かに、毎日のニュースには金がらみの事件が多い。最近も、外務省の役人の横領、KSD関連の国会議員の汚職、また、地元愛知県職員と漁協幹部の癒着、不動産屋らの資産家殺害、明るみになっただけでも枚挙に暇がないほどだ。それは、金に捕われた者たち、人生の目標が神の国にではなく、私欲にある者たちの末路である。
 しかし、貧しい者は幸いだ、には合点が行かない。例えば、空きっ腹に凍えるなかを路上で過ごさなければならないホームレスを思うと、幸いだ、とは絶対言えない。
 もちろん、イエスは客観的真理を述べたわけではない。イエスは貧しい人々にではなく、神の国の宣教者たちに向けて言われたのである。何故なら、宣教者らは、自己の利益栄光のためにではなく、貧しい者、虐げられた人、不自由な人たちに仕えに行くからである。仕えるがため、貧しくなり、飢え、泣く、ことは神から祝福される、と言っているのです。金の亡者たちは仕えるのではなく、奴隷になっているから、禍なのです。
 さあ、私たちは金に仕えるのではなく、貧しい人に奉仕する者になりましょう。

今週の一句
「 沈丁花 香も膨らませ 春立ちぬ 」
―もとゐ―


2001年2月18日() 年間第7主日 ルカ 6:27〜38


6:27
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30
求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33
また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
6:37
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
6:38
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 人々への奉仕に貧しくあれ、とイエスは私たちを招いています。
 イエスの宣教の旅は安易な、平坦なものではありませんでした。ルカの伝えるように、故郷の人々からは誤解と排斥を受け、律法学者やファリサイ派などのユダヤ教指導者たちは敵視し迫害しました。イエスの十字架での刑死は、それを端的に物語っています。
 これに対し、イエスは自身を与え尽くし、無抵抗に徹し、敵のためゆるしを祈り続けました。そこに、イエスの救い主の姿が見られます。もし、イエスが抵抗し敵を殲滅していたなら、単なる、一時代の英雄として名をのこしたに違いありません。イエスが神の子、救い主と呼ばれるのは、私たち人間が、挑戦しつづける課題を与えられたからではないでしょうか。
 米国の新大統領ブッシュは、またもや、イラクを爆撃しました。何の解決にもならない、ただ、犠牲者を出すだけの暴挙でしかありません。これが救いがたい人間世界の現状なのであります。この世界を変えるのは、イエスの愛しかありません。
 さあ、イエスは私たちを呼んでいます。愛し合おう、と。

今週の一句
「 クロッカス 再会したる 春来たる 」
―もとゐ―


2001年2月25日() 年間第8主日 ルカ 6:39〜45


6:39
イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
6:40
弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
6:41
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
6:42
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
6:43
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
6:44
木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
6:45
善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 敵を愛するように、イエスは私たちに呼びかけています。
 イエスは私たちが敵を愛する根拠として、神の憐れみをあげています。
 私たちが相手に敵意を抱くときはどんな場合だろう。自尊心を傷つけられたとき、非難や中傷、馬鹿にされたときなど、また、身体生命財産を脅かされたり、奪われたときだろう。それは、自分自身に限らず家族、縁者、友人がそういう目にあったときも含まれる。例えば、最近の米国原潜による日本の実習船衝突沈没によって子どもの生命を奪われた家族にとって相手の責任者には憎しみ敵意を持ったことだろう。その他に、戦争、暴力、交通事故、等の加害者をゆるせない被害者の場合も同じだろう。
 従って、私たちの敵意感情は身体的精神的物質的な物を傷つけられ奪われたときに現われる、と言っていいだろう。これは。奇しくも、イエスが、侮辱する者を祈れ、もう一方の頬を向けろ、下着も与えろ、取り返すな、と言っていることの反対ではないだろうか。私たちが敵意を持つことのない生きる姿勢、無私のあり方をイエスは語っているのだろう。
 私たちのできることは被害者、加害者のために祈ることと、自分自身が敵意を持たない生き方に挑戦し続けることではないだろうか。
 神が憐れみ深いように私たちも憐れみ深い者になりましょう。


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