ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 初春の のどけき光 ねこ弾み 」
―もとゐ―


2001年1月1日() 神の母聖マリア


 神の生を歩む者は人の声にではなく、神の声に従うと、イエスは私たちに呼びかけています。
 2000年のキーワードに『「偶発的なもの」の増殖』を挙げていた新聞記事がありました。※(1)
 それによりますと、米国の大統領選から日本の政治、少年犯罪、株価の乱高下まで偶発的要因がきっかけとなっている、という。そして、そのような社会では、社会のシステムが偶発的なものにぜい弱であることがわかれば、不安が増大し、信頼できる安全なものや確信のもてるものにすがろうとする傾向が著しくならざるをえない、という。※(2)
 即ち、現代人の一方では、すがるものがなく不安と不信の中に右往左往しているということでしょう。
 さて、羊飼いたちは天使の声に従い、飼い葉桶に眠る幼子を見に行きました。私たちの生は、イスラエルの歴史と人類の歴史を貫いて働いておられる神の存在に根をおろしています。世の中のシステムにではなく神のシステムにです。そのシステムは、愛とゆるし,共生であります。排他的、独善的なものではありません。オカルト的、狂信的、洗脳されたものではありません。イエスのようにいと小さき人々の生命を守るために自己を放棄するものなのです。
 さあ、偶発的なものに翻弄されるのではなく、愛とゆるし、共生のもとの社会を目指して新たな世紀を歩み始めましょう。
※(1)(2)朝日新聞2,000/12/29、朝刊 カン サンジュ著『私のメディア批評』

今週の一句
「 柔らかな 光の中の 初出勤 」
―もとゐ―


2001年1月7日() 主の公現 マタイ 2:1〜12


2: 1
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2: 2
言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2: 3
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2: 4
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2: 5
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2: 6
『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2: 7
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2: 8
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2: 9
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 神の声を聞き分けて生きるように、私たちはイエスに招かれています。
 グローバル化(狭義の)が喧伝されて久しいですが、その光の部分だけ語られていて、陰のところはあまり知らされていないようです。実のところ、グローバル化は富の一極集中と貧困の増大と拡大に他ならないのです。従って、富が他者に渡らないように、他者を排除して自己防衛に努めること、いわゆる、国家主義が強まるのです。※
 へロデ王はその内の一人でした。経済や文化の面では当時のヘレニズム世界から多くの物を取り入れていたのです。占星術の学者たちを歓迎したのもそうでしょう。しかし、自己の地位、富が危険になるときは耳を塞いだのです。ユダヤの救いではなく全世界の救いの到来はおのれの権力の喪失になるからです。へロデの関心は自分にだけで、他国の人々、いと小さき者たちには全くなかったのです。日本のグローバル化も同じではないでしょうか。
 イエスの到来はこの国家主義、利己主義を打ち破るのです。神の救いはユダヤ人だけにではなく、全世界の、そして、名も無き人々にこそもたらされるものなのです。へロデがそれにあずかるには放棄が必要だったのです。
 さあ、私たちは自己を越え、国家、人種を越えていと小さき人々と連帯して行きましょう。
※ 酒井直樹『論壇―21世紀の入り口で』朝日新聞2001年1月3日

今週の一句
「 落ち葉掻き 若芽出でにし 初春や 」
―もとゐ―


2001年1月14日() 年間第2主日 ヨハネ 2:1〜11


2: 1
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2: 2
イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2: 3
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2: 4
イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2: 5
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2: 6
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2: 7
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2: 8
イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2: 9
世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 イエスの到来は自己を開放したとき、告げられると聖書は語ります。
 なぜ、マリアはイエスにぶどう酒がなくなったと言ったのでしょうか。マリアはイエスが神のように奇跡を行う者であることを知っていたからでしょうか。イエスの返答から推測するとそうではないようです。むしろ、マリアの催促はお門違いだとイエスは指摘しているようです。つまり、マリアも私たちもイエスにこの世的物質を満たす者としての役割を負わせているということを。確かに、イエスの到来は結婚の披露宴に譬えられるように喜び楽しむことです、しかし、それは、物質的なことではなく、水がめが空になって初めて与えられることなのです。イエスが自分の時を十字架に上げられる時、と言ったように。
 さあ、私たちは自己を空にしましょう。イエスの救いがやって来るからです。

今週の一句
「 大寒や 凍てつき道を そろそろと 」
―もとゐ―


2001年1月21日() 年間第3主日 ルカ 1:1〜4、4:14〜21


1:1-2
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
1: 3
そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
1: 4
お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
4:14
イエスは”霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4:15
イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4:16
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
4:19
主の恵みの年を告げるためである。」
4:20
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 よいぶどう酒にみたされるよう、イエスは空になれと私たちに語りかけられます。
 ルカ福音書によれば、イエスの宣教は、観念的、知的なものではなく、非情に具体性、社会性のある働きです。しかも、それは、個人的スタンドプレイ的ではなく、共同体的な業です。
 1990年から2000年までは難民の10年間と言われたように、民族紛争、地域紛争により難民になった数は2000万人に達しました。その間、国連難民高等弁務官であった緒方貞子さんは、難民救済は人道的、慈善的援助では一時凌ぎでしかなく、政治的解決が最も必要だ、と語りました。
 同様に、聖霊によるイエスの宣教は、一時的なもの、慈善事業ではないのです。全ての人々、特に、貧しい、虐げられた人々が主の恵みを味わうためのものです。そのためには、イエスが身をもって示したように、持てる者が与える、分かち合うこと、まさに政治を含む、悔い改めの働きなのです。
 さあ、イエスの宣教に私たちも加わりましょう。まず、身軽になって。

今週の一句
「 息白し ものみな白し 寒の雨 」
―もとゐ―


2001年1月28日() 年間第4主日 ルカ 4:21〜30


4:21
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
4:22
皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
4:23
イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
4:24
そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
4:25
確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
4:26
エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
4:27
また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
4:28
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
4:29
総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4:30
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 虐げられた人々に福音を伝えなさいと、イエスは私たちを招かれます。
 ルカ福音書には、イエスの主の恵みの年が「今日、実現した」と宣言されています。何故なのだろうか。同様に、神の国はあなたがたの間にある、と書かれています。(ルカ 17:21)というのは、イエスがそれを語ったところには、それらしきものは現前していなかったからです。
 つまり、神の国とか福音とかは、客観的な実体がどこかにありそれを持ってくるとか、作ったりとか、そこへ行くとか、ということではなく、主観的な、いわば、心のもちよう、といったことなのではないでしょうか。現に、故郷の人々が、客観的証拠、奇跡を見せろ、と言うにちがいないとイエスが見抜いたように。
 しかし、イエスの福音が心の持ち方に限定されてはなりません。むしろ、人間相互のあり方、共同体的あり方なのではないでしょうか。病む人、貧しい人々、不自由な者がそばにいるとき、互いに関わり合い、尊敬し合い、助け合って行く共同体のこころのあり様を指しているのではないでしょうか。イエスはまさに、あなたがたの心が開かれたところに主の恵みの年が実現する、と言われたのです。さあ、心を開き、福音を伝えましょう。


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