ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 曼殊沙華 主なき田に 紅飾り 」
―もとゐ―


2000年9月24日() 年間第25主日 マルコ 9:30〜37


9:30
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31
それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32
弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34
彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35
イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 イエスは私たちに自分を捨てて従えと招いています
 イエスは旅の途中度々弟子たちに自分の受難復活(復活は受難なくしてありえないからこの場合受難を強調していると考えられる)を語っていますそれに対して弟子たちは耳を閉ざし続けていましたむしろかってに想像して政治的メシア(ローマ帝国からの解放者)としてイエスが勝利をおさめたあかつきには自分らがどの地位に就くか互いに争っていたのです相変わらず弟子たちはこの世の価値観にどっぷりつかっていたのですイエスの存在が神の国を証ししているにもかかわらず
 そのような頑迷な弟子たちにイエスは神の国の価値を語られるのです「仕える人子供を受け入れる人になれ」とこれは自分を捨てること十字架を負うことに通じます自己の利益出世にはならないからですイエスは私たちに仕え受け入れてくださったために十字架につけられたのです
 さあ目を覚まし出世レースを棄権しましょうそして互いを慈しみ受け入れあう道をあるきましょう

今週の一句
「 名月や 泥に流れし 街点し 」
―もとゐ―


2000年9月17日() 年間24主日 マルコ 8:27〜35


8:27
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28
弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
8:31
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32
しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
8:34
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

 イエスは私たちの耳を開きます
 ユダヤ教指導者たちは耳を塞いでイエスを神から遣わされた方であると認めませんでしたなぜなら彼らは自身の判断を停止していたからです彼らはユダヤ教の伝統宗教観信仰観倫理観を絶対視し安住していたのですそれではイエスの宣教旅行に付き従ってきた弟子たちはどうだったでしょうかイエスは彼らに問いました「それではあなたがたはわたしを何者だというのか」(マルコ 8:29)このイエスの質問は弟子たちが人からの受け売りや世間の評判本などの知識から答えるのではなく自身がどうイエスをみているのかそしてどう判断しているのかを聞こうとしているのです私たちはややもすれば教会で教えられたイエスしか知らずそしてそれだけが正しいと判断しがちです自分で考えることをしないのですなぜならその方が楽だし責任がないからです従ってイエスの異なった姿に接したとき驚いて耳を閉じてしまうのです「もう聞いてられない」と イエスはそうならないように「あなたはどう思うのか」と自分の考えを問うているのです
 ペトロの答えは立派でしたイエスを敵視する中で恐れることなく自身の思いを答えたからですしかし彼にはイエスの一部分しかまだ見ていなかったのですというのは受難のイエスを見ようとしなかったのです
 さあ私たちのイエスへの思いもまだ途上でしょうそうだからこそイエスの語りかけに心を閉ざすことなく聴き開かねばならないのでしょう
 イエスは今日も私たちの耳を開いてくださるからです

今週の一句
「 虫の音や 誘われて消す 冷房機 」
―もとゐ―


2000年9月10日() 年間23主日 マルコ 7:31〜37


7:31
それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32
人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33
そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35
すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36
イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37
そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

イエスの真実は他者を生かします
 イエスは耳の聞こえず舌の回らない人を癒し聞こえるようにし話せるようにしましたそれまでこのような病人たちはあの宗教的戒律伝統を固執しているユダヤ教指導者からは無視され貶められていただけでした従ってイエスのこのような病人への関わりは病者から見れば奇跡神の救いでありユダヤ教指導者からすると彼らの真実を否定する敵対的行動となるのです
 しかしイエスは病人を癒すと同時に彼ら指導者の「病気」即ち真実へ閉ざした耳正しいことを言えず偽りを語る舌自己中心的で他者と関わらない生き方を癒そうとされたのです
 私たちも教会も自己の利益を守るために心を閉ざし偽善を行う生き方からイエスとの交わりから目を覚まし耳を開き他者の痛みを共感する心を育てましょう

今週の一句
「 眺むれば 朝陽の彼方 秋の雲 」
―もとゐ―


2000年9月3日() 年間第22主日 マルコ 7:1〜23


7: 1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7: 2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7: 3 ・・ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7: 4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。・・
7: 5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7: 6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7: 7 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』
7: 8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7: 9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 真実は神からしか与えられないとイエスは私たちを招きます
 自分たちこそ真実を守っていると思い込んでいる人たちはその真実を守らない人々を攻撃しますユダヤ教指導者たちは真実を守り人々に真実を教えそれによって地位を得食べている者たちですいわば真実を売り買いしている人なのですそんな彼らからみればイエスとその弟子たちは商売敵ですなんとしてもイエスらを葬らねばならないのですつまりこの世の真実即ち人間がつくるもの「人から出てくるもの」(マルコ 7:20)とは力の強い者たちの利益になるものなのです「人を汚すのである」(マルコ 7・23)
 イエスの真実はそれに比して何だろうかそれは貧者病者力の無い者たちを生かすものではないだろうか「汚れ」を自ら落とすことのできない人々をそのまま受容し共に生きることではないだろうかそれは神からしか与えられないものである
 真実を守っていると洗脳されている教会人も人を縛り抑圧することではなく解放し共生する真実に目覚めなければならない
 さあ手を洗うことより心を洗いに出かけましょう


今週の一分間説教 Gospel on this week