ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 蝉の声 陽射しと共に 主張せり 」
―もとゐ―


2000年7月30日() 年間第17主日 ヨハネ 6:1〜15


6:1
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6:2
大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6:3
イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
6:4
ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
6:5
イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:6
こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6:7
フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
6:8
弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6:9
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
6:10
イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6:11
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
6:12
人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6:13
集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
6:14
そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6:15
イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 イエスは私たちを苦難にある人々のところへ遣わされます
 少年のパンはどう思ったのだろうパンは食べられると思っていたが少年とその家族を十分に満足させられないと申し訳なく思っていたところが思わぬ展開となった少年の手からそのパンは差し出され手から手へと割られながら渡されていったそして周りにいた数え切れない程の人々の飢えを満たしたのだったパンは驚いたこんなちっちゃな僕をみんなの手が繋がるたびに大きくなっていった不思議を
 イエスがそうでしたかれの生涯と働きは飢え病み疲れた大群衆のまえには小さな小さなことでしたしかし彼の自己を空にし神に明渡した姿を受け継ぐ手の連鎖は偉大な働きにしていったのです
 私たちもそうあることを願います欠けの多い私たちが利己的にではなく共生するように明渡して行くことを

今週の一句
「 蝉時雨 歓声聞こえぬ 校庭や 」
―もとゐ―


2000年7月23日() 年間第16主日 マルコ 6:30〜34


6:30
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31
イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32
そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 イエスはわたしたちを「神の国」の宣教に遣わします
 イエスの眼前には「飼い主のいない羊」のような人々が雲霞のごとくいました
 しかしこの世の指導者宗教家リーダーの眼には映っていなかったのです彼らの関心は自己の利益だけでした従ってイエスの眼は当然後者にも注がれていたのです何故あなたたちは苦難を負っている者たちの隣人とならないのですか
 今日の様相もイエスの時代とかわりません私たちの前には彷徨している人々が無数にいます人生に喜びを見出せない人意味や希望を失くした若者孤独な老人病む人等々にもかかわらず彼らを見ずに私たちや教会は通り過ぎています
 イエスの眼は彼らを見つめ手は彼らに触れています私にされたように
 さあ私たちも向きを変え手を伸ばしましょう

今週の一句
「 西日照る 汗拭く顔に 安堵有り 」
―もとゐ―


2000年7月16日() 年間第15主日 マルコ 6:7〜13


6:7
そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8
旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9
ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11
しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13
そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 イエスは私たちが苦難を負う人々の傍らに立つよう招いています
 イエスの宣教は「悔い改め」が目的ですこの世界は利益が至上の価値になっている雪印の例にも明らかなように行政と一体となって市民を「食」い尽くしている個人においても私益を守るために他者にはいじめか無関心かである
 かくしてこの世は相争う所である
 この世界にイエスは「神の国に生きよう」と呼びかけるそれは相争う人生ではなく分かち合う与え合う喜び合う人生にしようとの呼びかけだ即ち「悔い改め」ようである
 従ってその宣教に遣わされる私たちは所有物に頼るのではなく人々のネットワークに頼むのだ所有物に依存するならイエスの故郷の人々がそうであったがためイエスを見失うことになるしかしイエスが神に委ね人々に頼ったときパンを分かち合えることになる
 さあ私たちは何も持たず人々に呼びかけよう「共に生きよう」と

今週の一句
「 開けみれば 蜻蛉立つや 後台風 」
―もとゐ―


2000年7月9日() 年間第14主日 マルコ 6:1〜6


6:1
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5
そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6
そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

 苦難を背負う人々のそばにイエスは立っておられる
 イエスのそのような働きは理解されないまずユダヤ教指導者やファリサイ派たちそして故郷の人たちからも後者はイエスを最も近くから見ている者知っている人であるキリスト教の人々を暗示しているかもしれない
 総選挙が終わった莫大な借金を残す政治のあり方にノーを言う有権者は少なかった相変わらず地元利益誘導型の政治家が残った将来への負の遺産は増え続けるだろう同じようにイエスに対しその場限りの利益のみ追求しているキリスト教はイエスを理解しようとしない
「この人が授かった知恵とその手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(マルコ6・2?3)
 キリスト教会が損すること非難されることはしないでくれそっとしといてくれ教会の商売の邪魔をしないでくれとイエスに求めているのではないか
今やイエスは教会でこそ敬われていないのだろう
イエスは十字架を背負われた宝物の袋をもってきたのではないそれ故に私たちはマモンから自由になったのではないか
さあイエスのように私たちも苦難にある人々のそばへ駆けつけよう

今週の一句
「 梅雨空は 紫色が よくにあう 」
―もとゐ―


2000年7月2日() 年間第13主日 マルコ 5:21〜43


5:21
イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23
しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24
そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26
多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27
イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28
「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29
すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30
イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31
そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32
しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33
女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37
そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38
一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39
家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42
少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43
イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 イエスは私たちもまた宣教に出かけるようにご自身を差し出されています
 イエスの宣教の業はヤイロの娘にも出血症の女にも行われます前者は恵まれた娘で後者は見捨てられた女でした少女は町の有力者の娘ということで町中の人々がイエスの働きを固唾を飲んで注視していたのです他方女には誰も関心を持たずむしろ邪魔者ゴミ扱いしていたのですしかし周囲の期待にではなくイエスはこの女の必死の叫びに答えられまた父親の願いを聞き入れられたのです
 町の人々は両者において傍観者でした彼らは会堂長の父親の悲しみ苦しみのそばにはいませんでした遠巻きに眺めていただけですイエスのことばにはあざ笑うだけでしたましてや出血症の女には全くの無視でした
 イエスの宣教は苦難にある者たちの傍らに立つことです世間がどう見ようとあざけろうと,立ちつづけることなのです
 さあ私たちはイエスからの恵みにより傍観者になることを止め隣人に成るよう出かけて行きましょう


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