今週の一句 |
「
梅雨空を 忘れさせたり アガパンサス
」 |
―もとゐ― |
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2000年6月25日(日) キリストの聖体 マルコ 14:22〜26
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14:22
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一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
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14:23
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また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
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14:24
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そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
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14:25
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はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
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14:26
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一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
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神は子なるイエスを聖霊によって、私たちに与えつづけられています。
私たちは聖餐式の度に、イエスの生涯を思い起こします。私たちを救い、私たちの生命が豊かになるように、ご自身を与え尽くされたイエスに出会います。
そして、イエスは私たちを派遣します。その食卓を囲み、生命を分かち合う仲間を招くようにと。
ところが、私たちはイエスの恵みを、タラントを土中に隠した僕のように自己の内にだけしまいこんでいます。
最近の新聞に次のような記事がありました。日本では98年に3万人以上の戦後最多の自殺者がありました。その原因には社会のゆがみが反映され、現代日本社会の特徴は、「不安」「孤独」「孤立」「喪失」の言葉で表現される、と。「自死」した彼らの傍らには誰もいなかったのでしょう。自殺者だけではありません、ホームレスの人たちも同じでしょう。誰も彼らに手を差し延べないのです。
さて、イエスを知る私たちには、それらの言葉があてはまるでしょうか。イエスが共にいて、受け入れられ、分かち合う豊かさを与えられている私たちに。それゆえにこそ、私たちの責任が問われるのです。教会の使命があるのです。自殺していく者、職を失い家を追われる人が増加する今の日本社会の中で、聖餐式に与り、イエスを食するとは、イエスのように自己を分かち与える者になることなのです。
さあ、行って隣人になりましょう。
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