ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 初夏や さざなみ立てて 頬に触れ 」
―もとゐ―


2000年5月28日() 復活節第6主日 ヨハネ 15:9〜17


15:9
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 イエスはわたしたちが実を結ぶように私たちの中を流れています
 森首相の「神の国」発言が批判されていますがそれでも彼は撤回しないとか性懲りもなく毎年侵略戦争を反省しない発言が繰り返され内外からの反発を呼んでいますわが国の支配者たちの頭の構造はどうなっているのでしょうか
 日本の「神の国」は内外とも侵略支配差別の他者を犠牲にした上に成り立ったものであることを歴史は証明していますかってハンセン氏病の人々は強制隔離され親兄弟姉妹と縁を切らされなお孤独と絶望のうちに生きざるをえないようにです
 イエスは言います「父がわたしを愛されたようにわたしもあなたがたを愛してきた」「あなたがたの喜びが満たされるためである」「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」イエスの神の国は「友のために自分の命を捨てること」ですイエスが弱い人々貧しい人々虐げられた者たちの生命を豊かにしようと十字架につけられたように互いに生かし合う国です
 そこに住まうことのゆるされた私たちは「行って実をむすぶように」苦難を分かち持つ生き方をしましょう
 さあイエスの満ち満ちた愛の塊になるようイエスにしっかりと結ばれましょう

今週の一句
「 新緑や 白き花房 風に揺れ 」
―もとゐ―


2000年5月21日() 復活節第5主日 ヨハネ 15:1〜8


15:1
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 イエスの生命放棄によって私達は豊かな生命をいただくことになりました
 「私はまことのぶどうの木あなたがたは枝である」イエスと私たちの関係を示しています私たちはイエスから汲めども尽きぬ生命ゆるしをいただいて生きることができます
 しかし私たちはそれを忘れ自己に頼った生き方をしています例えば私たちは自分の価値をどこにおいているでしょうか地位学歴財産においているのではないでしょうか〇〇会社の私ベンツの私博士の私等々価値は私自身にあるのではなく所有物にあるのです従ってそれを失えばただの人になるのです失業者はそれだけでホームレスと評価されるのです
 「植物は みずみずしい水の塊」「夏の檜は静かになどしてはいない音をたてて生きている」(2000年5月20日毎日新聞『余録』)植物はその存在を水においていますその水を吸収するためにはその管はからっぽでなければなりませんつまっていれば水は流れず枯れてしまいます
 私たちも自己を所有に頼っているとき不自由になり腐ってしまいます所有にではなく無にからっぽになるとき自己の罪深さ弱さを認めイエスに委ねるときイエスの命ゆるし力が溢れ豊かに他者と共に生きることができます
 さあイエスの愛の塊になりましょう

今週の一句
「 どくどくと 注ぎ満ちたり 茜の田 」
―もとゐ―


2000年5月14日() 復活節第四主日 ヨハネ 10:11〜18


10:11
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17
わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 私たちの目は世間の闇に曇らされているため生きているイエスを見ることはできないのです
 闇の中を彷徨っている私たちは自身では出口を見出すことはできないイエスを失い恐怖のどん底にいた彼らをもう一度この世に立ち向かわせたのは彼ら自身ではなくイエスであったように
 この世からではなく神のもとから神と一体化しているイエスこそはこの世に縛られている私たちを脱出させる羊飼いである私たちは捨てること放棄することを嫌がるなぜなら地位や財産を失ったとき自己が無価値になったと思うからだ弟子たちにとってのイエスも彼らの価値を支える「メシア」でしかなかった彼の弟子だというだけで世間の注目を浴び将来の地位も約束されているかのように錯覚していたのだ従ってその「メシア」が殺されれば自分たちには何の価値もなくなってしまったのだ
 それに較べイエスは無であったイエスを生かすのは己ではなく神であるからだ命は神から与えられるのであってこの世ではないむしろこの世はそれを奪う従ってイエスは自由だった命を捨てられたのだ
 私たちがこの世から解き放たれるにはこのイエスに附いて行くしかないのだイエスはわたしたちを神の国に導かれるそこは与え合い支えあい生かしあう場無のである
 さあ殺し合うこの世界から脱出しようイエスに従って

今週の一句
「 膨らんで 膨らんで裂く 芍薬ぞ 」
―もとゐ―


2000年5月7日() 復活節第三主日 ルカ24:35〜48


24:35
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
24:36
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43
イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24:44
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46
言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48
あなたがたはこれらのことの証人となる。

 この世を恐れ不信に生きる私たちにイエスが近づかれます
 弟子たちの目やこころは曇っていましたイエスを失って前途真っ暗だったからです若者による凶悪犯罪が相次ぎ私たちも嘆息ばかりで暗黒の社会で出口も見えずいらだっていますそれは若者たちに影響を与える私たち大人がいいかげんに生きているからではないでしょうか
 弟子たちの恐れそれは自分たちを支え道を示すイエスを忘れたからではないでしょうかもう一度イエスの生涯彼が死を賭けて証しした神の愛に基づく生き方に他者と共に在ること目を向けたとき光を見出したのではないでしょうか「あなたがたに平和があるように」(ルカ24・36)
 私たちは今も声をかけ会いに来られるイエスに目覚め耳を傾けましょう必ず光を見出し若者たちと共に生きるよう励まされるのです
 さあ眠たい目をこすりイエスに会いに出かけましょう


今週の一分間説教 Gospel on this week