ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 頭から 緑に染める ケヤキかな 」
―もとゐ―


2000年4月30日() 復活節第2主日 ヨハネ 20:19〜31


20:19
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20:24
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20:30
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20:31
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 イエスの復活はお告げですわたしたちが受け入れたときイエスは生きているのです
 イエスと弟子たちの間には「戸」がありましたまずユダヤ人を恐れから隠れるために閉めた「戸」がありましたこの世の勢力は自らの暗闇を告発するイエスを亡き者にし彼に追随しよとした弟子たちにもその危害を加えようとしました弟子たちはそれから逃れようと「戸」にしっかりと鍵をかけました
 私たちの教会は社会との間に重い鉄の扉を置いているのはないでしょうか社会の出来事に没交渉となり教会という異次元の空間でひそひそと独語を呟いているのではないでしょうか
 イエスとトマスの間にも「戸」がありましたそれは不信という名の「戸」でありました
 私たちの教会は実は神もイエスも信じてはいないのではないでしょうかトマスと同じようにイエスにいわゆる神性メシア性を求めていてその証拠がさっぱり得られないので信じていないのです
 しかしイエスは告げられた方でありその復活も告知なのです私たちはそれを認め受け入れ身を投じるほかないのです「わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ 20:21)
 このイエスの招きに私たちは応え社会に光をともしに行くのですその時イエスが生きていることが与えられるのです
 さあ重い扉を破って社会にイエスの復活を告げに出かけましょう

今週の一句
「 きじ一羽 見渡す限り 穀雨かな 」
―もとゐ―


2000年4月23日()復活の主日 マルコ 16:1〜7


16: 1
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16: 2
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16: 3
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16: 4
ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16: 5
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16: 6
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16: 7
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 イエスに身を委ねることの出来る私たちは足を洗うように招かれています
 イエスを失ったペトロや女たちの前には大きな石が置かれてありました根無し草が足をおろすにも石があってじゃまをしますこの大きな石は何でありますか
 いつかはつかわれるであろうと放置されていた墓穴用の大きな石それがある日突然イエスを埋葬した墓を防ぐために転がされて置かれました人々は石を非難します「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ 16:3)
 私たちの人生には数々のバリアーがありますそれを越えられないときバリアーそのものに不満をぶつけます何故どうしてと原因を転嫁しますまたバリアーを取り除けてくれる人が来るのをまだかと待っていますそれはやはりわたしたちには根が無い拠って立つところがないからですペトロたちはイエスにではなくこの世に従ったため大きな石にぶつかってしまったのです
 ところが石はありませんイエスの亡骸もありません女たちがイエスを捜し求めたとき既に石は転がされしかもイエスは会いに出かけて行ったのでした
 私たちがこの世に縛られているならバリアーはバリアーでしかありませんしかしイエスに目を向けイエスに委ねるときバリアーからフリーになるのです
 凶悪事件紛争貧困とこの世には人間の幸福を妨げるバリアーが波のように押し寄せてきます私たちがこの世に捕らわれているならそれはなくならないでしょうしかしイエスの無私・愛に目を向け私たちが無欲になるならバリアーは砕けるでしょう
 イエスの復活わたしたちの心のバリアーこの世のバリアーからフリーになることなのです

今週の一句
「 こだまする 乳葉幼葉と 若葉たち 」
―もとゐ―


2000年4月21日(金)聖金曜日・主の受難 ヨハネ 18:1〜19:42


18: 1
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18: 2
イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18: 3
それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
18: 4
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18: 5
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18: 6
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18: 7
そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18: 8
すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18: 9
それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18:10
シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18:11
イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
18:12
そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13
まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18:14
一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
18:15
シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18:16
ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18:17
門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18:18
僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
18:19
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18:20
イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18:21
なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18:22
イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18:23
イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18:24
アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
18:25
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18:26
大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18:27
ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
18:28
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18:29
そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18:30
彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18:31
ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18:32
それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18:33
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18:34
イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18:35
ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18:36
イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18:37
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18:38
ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18:39
ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18:40
すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
19: 1
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19: 2
兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19: 3
そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19: 4
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19: 5
イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19: 6
祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19: 7
ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19: 8
ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19: 9
再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19:10
そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19:11
イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19:12
そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19:13
ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19:14
それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19:15
彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19:16
そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。
19:17
イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19:18
そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:19
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22
しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19:23
兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24
そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19:25
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19:26
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27
それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19:28
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29
そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
19:31
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19:32
そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19:33
イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19:34
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19:35
それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19:36
これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19:37
また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
19:38
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19:39
そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19:40
彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19:41
イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19:42
その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 イエスは極みまで弟子たちを愛していることを証しするため進んで十字架を背負われました
 イエスは捕縛しに来たユダヤ人に自ら名乗りましたイエスは自分が誰であるかを公言してきました神殿でも会堂でもまた大祭司やピラトの前でもそして名乗ったがゆえに迫害を受け十字架を負わされました
 何故イエスにはそこまで名乗れたのでしょうかそれはイエスがおのれを何処から来て何処へ行く者なのかを知っていたからではないでしょうか即ちこの世に遣わされ人々が暗闇から光を歩くように神の愛を証しする者であることをイエスは確信に生きたのです
 他方ペトロは迷っていました自分が誰であるのかおのれの人生が何であるのかわからなかったのです根無し草だったのですだから尋ねられたとき自分を否定し偽ったのです確信をもって言えることが何一つなかったのですまさにまっ暗闇の中を彷徨っているのです
 私たちは自分のことを誤魔化さず誰であるかを明らかに言うことができるでしょうか言い分けたり使い分けたりして本心を言うことにためらいがあるでしょうというのは自信がないから自慢できるものがないから人の評価を気にするのですやはり私たちの人生は暗い偽りの人生なのです
 イエスを十字架につけたのは実にこの私たちの嘘の生き方なのです嘘がばれないように
 しかし偽ったペトロにイエスは再び目を留められました根無し草だったペトロはイエスという根をプレゼントされたのですペトロの自信は自分にではなくイエスにあるのです
 さあイエスの土台に足を置くことを許された私たちは自分のありのままを公言しましょう主よあわれみ給え

今週の一句
「 ひらひらと 蜜吸う蝶の 生新た 」
―もとゐ―


2000年4月20日(木)聖木曜日 主の晩餐 ヨハネ 13:1〜15


13: 1
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13: 2
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13: 3
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13: 4
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13: 5
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13: 6
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13: 7
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13: 8
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13: 9
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13:12
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13:13
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13:14
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 子ろばと身を捨ててイエスを証ししました
 イエスはご自分の人生を神を証しするために捧げましたイエスは弟子との別れの宴にて彼らの足を洗いましたそれは彼らが闇の人間としてついに暗黒の汚れから抜け出せないことを慮りそれでも自分は彼らの汚れを洗い続け彼らの弱さを担う者であることをそしてそれが神のみ旨であることを証ししました「もしわたしがあなたを洗わないならあなたはわたしと何のしいかかわりもないことになる」(ヨハネ 13:8)
 泥をかぶると言いますがそれにより得になればすすんでしますが徒労であれば避けるのは人の性でしょうにもかかわらずイエスの洗足は利益を超えた人間への深い愛からではないでしょうかまさに泥をかぶること汚れを汚れと感じない子供を抱きかかえる「親の姿」ではないでしょうか
 暗闇を脱しようとも出来ないわたしたちにイエスは足を洗いつづけていますさあそのイエスの暖かい柔らかい手に委ねてわたしたちも人を愛する者になりましょう

今週の一句
「 雪やなぎ 腰をかがめて 大地溶く 」
―もとゐ―


2000年4月16日() 受難の主日 マルコ11:1〜10


11: 1
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11: 2
言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11: 3
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11: 4
二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11: 5
すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11: 6
二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11: 7
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11: 8
多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11: 9
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
11:10
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 イエスは「持つ」のではなく放棄する生に私たちを招いています
 イエスは子ろばに乗ってエルサレムへ入城しました子ろばは有無も言わさず連れて行かれイエスを乗せられましたそのイエスは「柔和な王」として無抵抗に徹し最後にはこの世の奪い取る暴力性に勝利を上げた「平和のメシア」になりました子ろばはその一部始終を見ましたこの世の者らがイエスから何かを得よう取ろうとして群がってきましたが何も与えられないとわかったとき力ある者は誰一人残りませんでした他方異邦人貧しい人たちのようにこの世では力のない者たちはイエスの死を見守っていました子ろばもその内の一人でした
 子ろばは知っていました力のない人々がこの世ではどのように理不尽に扱われるか虫けらのように殺されるのかを身をもって体験していましたそしてこの世と闘い人としてふさわしい生をおくるためにはない者同士が連体する以外にないことを知っていました子ろばはイエスの生の友となりイエスの十字架復活をわたしたちに証ししました
 私たちは自分の無力さに怖気嘆くのではなくそれゆえにこそ人々と連帯しそばに付き添う者となれるのです
 さあイエスを運ぶ人になりましょう

今週の一句
「 花の下 老若男女 集い来る 」
―もとゐ―


2000年4月9日() 四旬節第5主日 ヨハネ 12:20〜33


12:20
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21
彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22
フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
12:27
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
12:28
父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12:29
そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
12:30
イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
12:31
今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
12:32
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
12:33
イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 イエスは私たちが光の中を歩み神の働きを賛美するように招いています
 この世の業は暗闇や密室で行われる今回の自民党総裁選びや中学生の5000万円恐喝事件に見られるようになぜならうまみを人にとられたくないからでありそのための策を密かに練るからですかくしてこの世の者は総理大臣から庶民まで暗闇を歩いているのですそれはこの世の価値が「持つこと」であり人々はその奴隷となっているからです
 イエスは「所有」の奴隷となっている私たちを自由にするため来られました
 イエスは放棄することがこの世からの自由になることだと身を持って証ししました実に私たちの生命人生は自分のものではありませんそれは授けられ人々と分かち合い仕え合うためにいただきました
 さあもう人に隠れ怯え妬みうらやむ暗闇の生き方をやめ有りのまま素直に感謝と喜びの生き方にイエスに頼って歩み出しましょう

今週の一句
「 うぐいすや もう一鳴きと 足を留め 」
―もとゐ―


2000年4月2日() 四旬節第4主日 ヨハネ3:14〜21


3:14
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18
御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3:19
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3:20
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3:21
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 ファリサイ派の人々やユダヤ教指導者たちは自己の安全と利益を与える閉鎖的排他的神殿体制を維持するためイエスを亡き者にしようとしましたイエスはそのような彼らを断罪するのではなく彼らを愛する故にこそ彼らの目を開かせるため時には神殿で行ったような憤りの激しい行為をとりましたここでもイエスはカイロスとなりました彼らの閉じられた世界を切断し開かれた世界に向かわせる時点になっています即ち自己中心的生き方から他者と共に生きる方を選ばせるため自らが無として神中心の生きかたを十字架の上で実践されたのです
 私たちは己に頼るとき自分の力不足を恥じ人の目を気にしこそこそ隠れて行います「悪いことをしている人は皆光を憎み自分の業が暴かれないように光のところに来ようとしないからである」(ヨハネ 3:19)※しかしイエスは自分の無力さを喜びとし神の働きを感謝しましたそして人々と神の業を共有したのでした「真理を行っている人は自分の業が神のうちにあってなされてきたのだということがあらわになるため光のところに来る」(同3:21)私たちが他者を愛し他者に仕えることは神の働きなのです
 さあ私たちは光の中を歩みましょう光が私たちを包んでくれるのです


今週の一分間説教 Gospel on this week