ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 坂道を 一人登ると 水仙花 」
―もとゐ―


2000年1月30日() 年間第4主日 マルコ 1:21〜28


1:21
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22
人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1:23
そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26
汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27
人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28
イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 イエスは私に従いなさい、と私たちを招かれます
 イエスは奇跡を起こしたそれは起こされた当人にとって奇跡としか言いようのない出来事でしたまたそれを目の当たりにした人々にとっては「権威ある新しい教え」と見たのですなんとなればそれまでのユダヤ教では悪霊に取り憑かれた者を呪い排除こそすれ助ける術がなかったのです当人はもとより周囲の者はその境遇を嘆くしかなかったのです
 しかしイエスは悪霊と対峙しましたと同時に無力で自己中心的ユダヤ教にも対峙しましたそれまで誰も向かわなかった相手と闘ったのです絶望にあった悪霊憑きの人はそのイエスの在り方に奇跡を見たのです
 私たちもイエスとの出会いによって古い自己から新しい自己へ生まれ変わる奇跡を経験しましたしかしイエスはそのために生命を賭けました
 さあ奇跡をいただいた私たちは困難な生にある人々が希望をもてるよう手助けをしましょう
※参照 大貫隆『終わりから今を生きるー姿勢としての終末論―』1999教文館 P55〜89

今週の一句
「 今週の一句:大寒や 足を踏み踏み バスを待つ 」
―もとゐ―


2000年1月23日() 年間第三主日 マルコ 1:14〜20


1:14
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1:15
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
1:16
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18
二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19
また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 イエスは「神の国は近づいた」と私たちを招かれます
 イエスは歩くガリラヤへ「行き」福音を宣べ伝え湖のほとりを「歩」いて声をかける少し「進んで」呼ぶそして呼ばれた者たちは「後について行」く弟子たちはそうしてイエスと歩くことによりイエスが何者であるかを追認して行きましたもちろん失敗もありましたしかし彼らはその失意のどん底でイエスに出会えたのです
 私たちがイエスを信じるためにはイエスと「歩く」のですミサにおいてイエスの物語を聞くのですがそれは頭の中であれこれ考えるためではなく日々の生活の中でイエスと「歩く」ように私たちを招いているのです「福音を信じなさい」(マルコ 1:15)とはイエスにおいて生きること「歩いて福音を宣べ病人を介抱し貧しい者たちとパンを分かち合う」ことなのですミサはその出発点であり中継点であり終点なのです
 さあミサで恵みをいただいたわたしたちはイエスと出かけましょう

今週の一句
「 上着脱ぎ 一汗拭くや 寒の入 」
―もとゐ―


2000年1月16日() 年間第二主日 ヨハネ 1:35〜42


1:35
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
1:36
そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
1:37
二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
1:38
イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
1:39
イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
1:40
ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
1:41
彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
1:42
そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 イエスが神の子であるとの告知に私たちは身を投じるよう招かれていますイエスが神の子であるとの告知は人から人へと語り継がれて来ました洗礼者ヨハネから二人の弟子に彼らからペトロへフィリポからナタナエルへと特徴的なことは論理的説明や「洗脳」によってではなくイエスとの出会い交流従うことによって経験的にイエスが神の子であることが伝えらるのですしかも経験の多様性ゆえに私たちはイエスの豊かさに出会えるのです新約聖書はそれを証しているのです
 2000年後に生きる私たちは初代の弟子たちのようにはイエスとじかにまみえることは出来ませんが2000年に渡る多くの証し人を通してまた今に生きるクリスチャンによってイエスの豊穣さに触れ出会うことができるのです
 しかしあくまで私たちがイエスの生に身をとうじてこそイエスとの真の交わりが出来るのです机上傍観からでは何も生まれないし証にはならないのです
 さあ私たちは身を空にし他者に仕えてイエスを神の子と伝えようではありませんか

今週の一句
「 野宿者の にわか床屋に 年新た 」
―もとゐ―


2000年1月9日() 主の洗礼 マルコ 1:7〜11


1:7
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
1:9
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 福音の聴かれるところはこの世の勝者ではなく彼らから追い出される無一物の名もない人々のところであるとイエスは私たちに問いかけられます
 福音は告げられますマリアには天使ガブリエルや羊飼いらシメオンとアンナによって羊飼いたちには天使によって占星術の学者には星と夢によってそしてイエスには天からの声によってですそれは告知ですから受け入れるだけですマリアのように生涯「心に納めて思い巡らし」(ルカ 2:19)ながらなのですヘロデは告げられたにもかかわらず拒否し消し去ったのです同様にファリサイ派や律法学者たちも自己を守るために聞き入れなかったのです
 イエスが天からの声によって「神の子」と告げられたことはイエスの生涯こそ神の子の生き方なのだと問い掛けられているのですこの告知は自己の栄達保身に汲々としている限り聴くことは出来ませんマリアや羊飼い学者のように身を投じる聴き従うだけなのです
 さあ私たちはイエスこそ神の子という福音に生きましょう無一物になり仕える者になりましょう

今週の一句
「 一番風呂 野宿者たちの 元旦なり 」
―もとゐ―


2000年1月2日() 主の公現 マタイ 2:1〜12


2:1
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2
言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 社会の中心ではなく片隅に福音が語られているとイエスは私たちを招いています
 福音は王の使者からではなく辺境からの旅人でる占星術の学者たちからもたらされましたしかしヘロデのところでは福音は語られませんでしたヘロデには聴く耳がなかったのです
 イエスの救い主としての姿は十字架上でしたしかし人々はそこに福音を見るのではなく呪いを見るのです従って人々は十字架を美化薄めようとするのですヘロデは福音を自分の利益を守るために利用したのです私たちも福音を自己の正当化にだけ利用しているのではないでしょうか十字架を負うことを忘れてゆるしのみに甘えているのではないでしょうか
 私たちは福音をおのれを満たすためにではなくマリアや学者らのように無になり人に伝え十字架を負うものとして聴こうではありませんか

今週の一句
「 大晦日 炊き出しの列 後絶たず 」
―もとゐ―


2000年1月1日(土) 神の母聖マリア ルカ 2:16〜21


2:16
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18
聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2:21
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 イエスは私たちが羊飼いらのように自分の重荷を背負いながらもなおかつ難儀にある人々のそばに駆けつけるよう招いています
 羊飼いたちはヨゼフたちの所へ急ぎましたそして天使が語られたことが本当であったことに驚きましたまたマリアたちは彼らの伝えたことに不思議がりました羊飼いらはマリアたちに福音を告げたのです人々から除け者にされ家畜小屋へ追いやられ打ちひしがれた彼女たちには朗報でしたしかし同時に大きな課題となったのです
 かくして福音は片隅で片隅の人々が語り伝えるのですそして片隅で十字架の上で実現するのです 受け取った者はマリアのように「心に納めて」(ルカ 2:19)日々の暮らしの1999年11月14日(日)(マタイ 25:14〜30) 中で子育ての中で神の救いの働きに参与して行くのです
 私たちも日々の出会いを神の眼差しのもとで見つめ救いの働きに与る出会いに変えて行きたいものです


今週の一分間説教 Gospel on this week