「天使の声」

名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基


 香港行政府の反民主化に立ち向かい、自由を守ろうと死を賭しての闘争を続けている多くの学生・若者の姿、世界各地で毎週金曜日、学校を休んで待ったなしの地球温暖化対策を、今すぐ大人たちに取らせようとストライキを続ける多数の青少年たちをニュースで見るたびに、目頭を熱くしつつ心を震わせている。デモにおける彼・彼女たちの叫び声は権力者から理不尽にも虐げられている人たちの代弁であり、応援歌ではないだろうか。そのシュプレヒコールに呼応して私たち日本人も立ち上がらなければならないのではないか。何故なら、私たち日本人は政府による、米国の属国化、大企業優遇、原発事故の放置、働き方改悪、増税等の横暴、出鱈目さに何の声を上げず、大人しく奴隷化、棄民化に従っているようだし、むしろ、憲法無視の天皇を利用した国民主権への否定に万歳三唱しているのからだ。このままでは、温暖化が若者たちの未来を奪うように、日本の若者の将来を今の大人たちが潰してしまうのだ。クリスマスを前にお先真っ暗な話をして申し訳ないが、どうしたらこの危機を乗り越えられ、未来を取り戻せるのだろうか。明るくなれるのだろうか。

 福音書によるイエス誕生のクリスマス物語(ルカ2・1-21)は史実ではなくファンタジーだ。想像を膨らませて自由に解釈するよう促される。さて、イエス誕生の家畜小屋に居合わせた人々は誰だろう。まずは、両親のヨゼフ・マリアはガリラヤの貧しい夫婦。ガリラヤはローマ帝国、ユダヤ王ヘロデ、エルサレムの大土地所有者、エルサレム神殿から多重に税金を搾取され、また、宗教的にも重荷を負わされたところ。ガリラヤの民衆は疲弊し、飢え、裸で、彷徨っていた。にもかかわらず、権力者たちはさらに追い打ちをかけるように、生活にままならず懸命に生きている若夫婦を有無を言わせず、人口登録のため身重の妻と共に遠方に旅立たせるのであった。家畜小屋には両親のように、長い辛い旅を強いられ、疲れ切った人たちで宿屋は満杯、枕するところさえない人たちも多くいただろう。まるで、現代日本の貧しい人たちだ。大企業の利益のため、非正規労働者となって、低賃金、無保証、長労働時間のワーキングプアとされた人たち、税金は高く、社会保障は削られ、高い教育費に心身すり減らす毎日だ。あるいは、原発事故により、生命・健康を奪われ、生業を失い、強制疎開させられた人々にも重なる。次に、羊飼いたち、野宿しながら夜通し羊の番をしていた人たちがいた。「羊飼い」はユダヤ教から汚れた仕事とされ、社会的交わりからは遮断された。そのため、その職に就く者は、外国人、犯罪人、逃亡者、等の社会から排除された人たちであった。あたかも、現代日本の外国人労働者たちが低賃金、無保証、無権利の危険な重労働を強いられた奴隷のような人たちではないか。

 それらの彼・彼女たちは、権力、政府、会社に声を上げれば、潰され、弾圧され、生活と生命を失う。それよりも、沈黙・忍従するしかない。その悲痛な声にならない叫びを誰が聴き、拾い上げてくれるのだろうか。羊飼いの野宿する荒野、また、イエスの眠る家畜小屋の空高く、天使とその軍団が声高らかに大合唱した、「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、(主の)喜び給う人にあれ。」(ルカ2・14、田川健三訳)つまり、神の栄光とは地、神の喜び給う人たち(虐げられ、苦難を負わされた人たち)が平和に、人権が守られ、平等に暮らせるよう人々が互いに神のことば、掟に従って生きることにこそあるとの宣言だ。声なき虐げられた人々の叫びを代弁する声ではないだろうか。

 香港の若者たち、環境破壊に立ち上がった子どもや青年たちの声が、天使たちの讃美歌なのだ。クリスマスのミサで声高らかに「グローリア」と賛美する私たちは、囚われから一歩踏み出し、それらの若者たちと連帯しようではないか。

 同様に、名古屋ダルクの生き辛さを抱えた薬物、他の依存症者たちの声を聴き、共に歩むことはクリスマスを祝うことに他ならない。

 今年一年、みなさまから頂いた暖かいご理解とご協力に、まことに、感謝申し上げます。来る2020年にも、変わらぬ温情を掛けてくださいますようお願い申し上げます。良きクリスマスと新年をお迎えくださいますよう、お祈りいたします。

 


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